きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

ある日のこと。


甘えってなんだろう。
甘えを見せられたら、どう対応すべきなのだろう。


「自分のペースで進めてね」
その日解くべき問題を提示した後、わたしは教室を循環して質問対応にあたる。
けれど、A君は杳として問題に取り組まない。
社会の参考書を見てみたり、落書きをしてみたり。
「わかんなーーい」
という叫びに彼の元に赴くと、横の女の子が口を挟む。
「本当は分かっているのに甘えてるだけだよ」
いやぁ、それは分かってるんだよ~と心の中で思いつつ、放っておいたら彼は何もせずに帰宅することになるだろう、、
と思うと、結局、手取足取り教えてしまう。
それが彼の学力や能力に何の影響もないばかりか、マイナスですらあるのは分かっていながら、である。
「〇〇、全然わかんなぁい」
と自身を名前で呼ぶ小学6年生男子を見ながら、甘えはどこから来るのだろう。甘えにはどう対応すべきだろう、と思う。

コミュニケーションを!

ある日のこと。


先日、教員室のど真ん中で「教え合い」を拒否されたわたし。
〝教室を覗かれている気がする〟という被害妄想に陥っている。


「40~50分くらい集中できなきゃ困る」
と言われたことを受け、90分授業の中の何分かは、自由に勉強していいよと言っている。
「自由に勉強する」とは、勉強する場所(机?ホワイトボード?)や、勉強すること(過去問?基礎の計算?)を自分で選ぶということ。
その際、相談は必ずするようにしている。
「自由に勉強できる」ことは受験生にとっても必要な力。
現状の能力と自分の特性に見合った勉強が出来るようになってほしい、そういう思いも伝えている。
後ろめたいことは何もない。


でも、〝覗かれている気がする〟と感じるということは、どこかに後ろめたさが残っているということ。
多分、コミュニケーション不足だ。
「不信感を持たれている気がする」
「監視されてる?」
わたしの教室に立ち寄る彼が、いったいどういうつもりなのか、喋ってみないことには分からない。
もしかしたら本当に不信感を持っているのかもしれない。
教室の子どもと話しに来ただけかもしれない。
変なことをしている私に興味を持っているのかもしれない。


何をするにも、コミュニケーションが欠かせない。

「賢さ」一考

p104
遊びにもいろいろな種類がある。何かを繰り返すというだけの素朴なものもあれば、人を罠に掛けて喜ぶ類のものもある。共通しているのはそれによって何らかの快感を得ているということで、人の苦しみを見て残酷な喜びを覚える、というのもまた、快感の一種には違いない。マグパイ(カササギのこと。弱ったキツネをからかうような行動を取るー引用者)に関して言えば、それは彼らの文化度の高さを表しているのだろう。狡知ということは、野生から離れてどんどん洗練されてゆく文化に付随してくる能力なのかも知れない。
梨木香歩『渡りの足跡』「鳥が町の上空を通過してゆく」



相手の立場(目上か目下か、逆らえないか反抗可能か、など)や状態(元気か弱っているか、など)を的確に捉えて、その情報に即して行動がとれること。
群れで生きる生き物にとっては欠かせない能力。群れの中で生きやすくなる能力。

「教えて」

かけ算の小テストが返却された。
Aさんの点数はイマイチ。
これからやり直しをして先生に提出しないといけない。
「はやくやり直しをしてください」
という先生の声にかぶさるように、
「おわったー!」「あー、ミスだった!」と子どもたちの声が上がる。
そして続々とやり直しをした小テストが先生のもとへ集まっていく。
「まだやり直しをしていないのはAさん、Bくん、Cくん……か。待っているんだから早くして」
先生の声は厳しい。


Aさんは真面目だけど、勉強が苦手な女の子。
掛け算で分からない所があるのかな?と思い、わたしはAさんのもとへ足を運ぶ。
Aさんは空欄ばかりの小テストを前に、消しゴムで手遊びをしていた。


この小テストは、先生が読み上げた計算式を自分で書き写して答える、という形式のもの。
Aさんが躓いていたのは計算そのものではなく、聞き取れなかった計算式そのものであるらしい。
「ここ、先生の式が聞き取れなかったの?」
と声を掛ける。うなずくAさん。
「じゃあ、誰かに式を教えてもらはないといけないね。
「………教えて」
Aさんはわたしに計算式を求めるが、あいにくわたしも式をメモしていない。
「わたしはテストをやっていないから分からないなぁ。だれか、教えてくれそうな人いるかな?」
Aさんは数秒戸惑った後に、後ろにいるDさんをチラリと見る。
Dさんはとても利発は女の子。テストも満点だったようで、やり直しをすることもなく読書に徹している。
「ほら、聞いてごらんよ。絶対教えてくれるよ」
と励ましてはみるが、Aさんにとって「教えて」はかなりハードルのある行為らしい。
「一緒にいてあげるからさ、かる~く『ここの式なんだったけ?』って聞いてみよう」
Aさんのハードルをなるべく下げようと、かなり踏み込むわたし。
観念したのか、Aさんは「ここ、なに?」とDさんに声を掛ける。
読書中のDさんは小テストをチラっと見て「〇〇だよ」と一言。
Aさんはその式をさっと小テストに書いて先生に提出した。


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人には生まれ持った「賢さ」というものがあるのだと思う。
先生の話を同じように聞いていなくても、聞いていないことがバレて怒られる人と、
隣の人にこそっと内容を教えてもらってやり過ごす人がいる。
先生に小言を言われた時に、黙ってしまった結果より怒られる人と、
上手く冗談を言って笑い話に変えることができる人がいる。
友人間でトラブルがあった時に真正面からぶつかる人と、
スカしたり怒鳴ったりすることで自分を優位に持っていける人がいる。
得てしてこういった「賢さ」を持つ人は友人関係も上手くやれるし、先生に気に入られることもできる。
そういて〝学校〟という空間の中で楽しく生きていける。


一方、にこういった「賢さ」をあまり持たない人にとって〝学校〟というのは辛い場。
学校の勉強が出来るか否か、友達と楽しく話ができるか否か、先生に認められる存在になるか否か。
すべてがこの「賢さ」と関わっている気がする。


小学生のころ、中学生のころ、学校の勉強ができるがどうか、なんてそんなに大事なことではなかった。
休み時間を一緒に過ごせる友達がいるか、クラスの中に存在しうるかどうか、それが全てだったように思う。
その時必要になるのが「賢さ」


大学で授業法の勉強をしていると、良い授業さえあればそれがスルスルと子どもの頭に入っていくように感じてしまうけれど、そんなことは絶対にない。
そのことを念頭に置かなければ、と思う。

目的って一つじゃないなぁ

塾でアルバイトをしようと思ったのは「教える」という経験を積みたかったから。
いわゆる一斉授業の技術を磨きたい、と思ったんです。
指示の出し方とか、発問の仕方とか。
でも、アルバイトを始めた後に、一斉授業の弊害について沢山知ることになりました。
分からなくてもその場では質問できないこと、分かっていても聞かなくてはいけないこと、「聞く」ということ自体が疲労へ結びつくということ。
それは本や人から見聞きしたことでもあるし、アルバイトを通して身を持って知ったことでもあるし、自分自身の体験からも分かること。
そういった従来の指導方法に疑問を抱く期間は、自分がどういう教育をしたいのか、何故教育に関わりたいのか考える期間と重なりました。
人が自分を好きになって自分の力で人生を切り開けるようになること、人が他人を好きになって誰かと世界をつくっていけるようになること。
そのツールとして読書や計算やいろいろな知識や学び方があるのだと、私は考えています。


塾の目的、存在意義は簡単です。
第一志望校に合格させること。
でも、塾に関わる全ての人がそこへ向かっていけるかというと、そんなことはない。
子どもは時に受験に意欲的でありません。親を満足させるために塾へ来ている子どももいる。
親もさまざまです。子どもの第一志望ではなく、「なるべく偏差値の高い学校」に子どもを入れたがる人もいる。
塾の職員は、合格実績を稼ぐことを念頭に入れずにはいられない。
そして私は、「人が自分を好きになって自分の力で人生を切り開けるようになること、人が他人を好きになって誰かと世界をつくっていけるようになること」という考えなしには、もはや子どもと関わることが出来ません。
そういった様々の「別の目的」は本来の目的と違うからといって封じ込めてしまえるものではないのです。
それらの目的が頭のどこかにある限り、必ずその影響が出てくる。


言うことを聞かない男の子が、年上の男性の先生の言うことなら素直に聞くのを見て、なんでかなぁと考えたことがあります。
威厳の有無が原因かな、と厳しい物言いをしてみたこともありました。
性別が関係しているのだろうか、とやるせない気持ちになったこともありました。
でも今は、私の「誰かに命令されて動くのは嫌だ」「子どもを命令で動かしたくない」というマインドが、彼に伝わっているのだろうと考えています。
思ってしまっていることを封じ込めるのは無理なんです。
ある人が「先生の思いは毛穴からブワーっと出て子どもに伝わる」と言っていました。
多分、そういうことなんです。


色んな人の、さまざまな目的は、どう擦り合わせていくべきなのでしょう。
色々な目的の狭間で、子どもが割りを食ってはいないでしょうか。
私は、私の受験をマイナスのものだなんて全然思っていない。
夕食休みにクラスの友達からマックのポテトをもらうのは楽しかったし、細かい知識をどんどん覚えていくのも快感だったし、頑張ったことが結果に繋がるのはすごく嬉しかった。
塾が悪いものだとは全然思わない。(それは学校に対しても思っていることでもあります)
でも、その負の面を見つめる現在の私の思いは、きっと毛穴から出てしまっているであろうその思い、はどこへ持って行くべきなのだろうと考えてしまいます。

成長とは何か

ある日の音楽の授業。


ソプラノリコーダーの音であふれる音楽室。
中には曲を吹いている人もいるが、息を強く吹きこんで面白がっている人も。
先生「つぎは〇〇をリコーダーで吹きます」
ピープーピイィィィー
児童A「先生が〇〇やるって言ってるよ!」
児童B「うるせぇ!」
児童A「うるさいのはそっちじゃん」
児童C「二人ともうるさいよ」
先生「そうですよ。AさんもBさんもうるさいです。それじゃあ伴奏が始まったらリコーダーを左手に構えてください」
♬~伴奏がはじまる
児童D「おいっ左手に持つんだよ。」
児童E「持ってるよー」
児童D「そっちは右手だろっ」
児童F「もうどっちだっていいじゃん~」
♬~リコーダーでの演奏がはじまる
ピーピーピー
児童Gが後ろを向きながらリコーダーを高く構えてふざけながら吹いている。
それを見て噴き出す児童Hと児童I。
先生「Hくん、Iくん、うるさいですよ」(伴奏を弾きながら)
児童H「だってGが~」
先生「……」(Hの反論は無視。今は演奏中だからだろうか)
♬~リコーダーの演奏が終わる。伴奏はまだ続いている
児童J「あぁ~失敗した~」
児童K「J!!うるさい!!」
先生、ピタッと伴奏を止めて、「最後の一音が終わるまでは演奏中です。J、最後の一音が終わるまでどうするの?」
児童J「しゃべらない」
先生「そうです。じゃあ、最後の所だけ演奏しますよ」
♬~伴奏終了。お辞儀の音と共に礼をする児童たち
先生「それでは今日の授業を終わります」
一気に騒ぎ出す児童たち。
児童K「まだ挨拶してないよ!」
先生「じゃあ日直さん、お願いします」
日直「静かにしてください」
なかなか静まらない児童たち。
児童L「静かにして!!」
日直「ありがとうございました」
一同「ありがとうございました」


ーーーーーーー


その後、教室に戻り国語の授業。
日直「よろしくお願いします」
一同「よろしくお願いします」
先生「あなたたちも大分落ち着いてきたね。音楽の先生に迷惑をかけなかった?」
生徒M「Nくんが怒られてました」
先生「またN!?担任の先生のいない所でもちゃんとするって約束したよね?」
生徒N「はい…」
先生「もういい加減にしてよ。そんなんじゃ次の学年へ上がれないよ。他の人はちゃんとやれたんでしょ?」
児童たち「やれましたー」
先生「確かに、4月よりは良くなってきているよ。これからも気を引き締めていこうね」
一同「はい!」
先生「それじゃあ国語の授業を始めます。O、ここのページを読んで」
児童O「はい。」
~その後も和やかに授業が進む。個別に漢字の書き取り練習をする児童たち。
先生「P、まだここまでしか終わってないの?さっき来た時もここだったよね?」
児童P「はい…」
先生「Pは先生が目の前にいないとやれないの?先生は一日中あなたの側にいられるわけではないんだよ」
児童P「はい…」
先生「自分の力でできるようにならなきゃ」
児童P「分かりました」
~児童P、やはり先生が離れると学習から心が逸れる。
児童Q「おいP,ちゃんとやれよ~」
児童P「やってるよ!」
先生「うるさい!Q、もう放っておいていいよ」
~また静まり返る教室。児童たちの漢字の学習は順調に進んでいるようである。とても落ち着いた雰囲気である。
~チャイムが鳴る
先生「それじゃあここらへんで終わりにしましょう。本当に落ち着いて勉強できるようになったね。はい、日直」
日直「ありがとうございました」
一同「ありがとうございました」

何の戦略も持たず挑んで玉砕した話

「すみません……算数の授業の進め方のことで相談があるのですが…」
「ああ、いいよー。だいたい10月が終わるまでには、この辺りまで進んで欲しいんだけど…」
「あ、いえ、そのことではなくて。前々からA君のことで悩んでいたのは既にお伝えしていたと思うのですが…。
やはり2学期に入ってからも授業になかなか集中できていなくて。
彼だけが集中できないのはまだ良いと思うのですが、他の子にちょっかいも出すのでどう対応したら良いかなぁと迷っていたんです。
そしたら、BさんがAくんと一緒に解こうと言ってくれたので、試しに一緒に解く時間、というのを設けてみたんです。」
「………」
「とすると、授業中に声を出す、ということになってしまっていて……」
「じゃあ個別に問題を解かしたらいいんじゃない?
クラスの人数も少ないし、机を全部離して、一人一人解かせてみたら?
先生の負担は増えるかもしれないけど。」
「そうですか……。みんなで相談しながら問題を解く形にすると、A君は比較的真面目に取り組んでいるのですが…。
やはり授業中に声を出すのはまずいですか?」
「そりゃまずいでしょ。受験も近いんだから、40-50分は集中できるようにしないと。」
「………そうですよね。」
「机離してやってみなよ。」
「…はい。そういうやり方にするとすると、解く問題は個人によって変えても良いですか?」
「あーそれはそうしたほうがいいかもね。Cさんとか、みんなと一緒じゃキツいでしょ。」
「はい。あと、Dさんはもう少し難しい問題にしたほうが良いかなぁと思っているのですが。」
「いや、彼女に必要なのは難易度よりも解く速さだと思う。タイマー渡して『何分で解け』って解かせるのがいいんじゃない?」
「はい。分かりました。」
「大丈夫?それでいけそう?」
「……とりあえずやってみようと思います。」


ーーーーーーーー
学習の個別化・協同化を目指して取り組んでいた算数の授業。
「塾の社員の人に言っていない」という事実はとてもネックだと思っていました。
大人に説明できないことを、子どもにすることは出来ないという思いがありました。
でも、大人の習慣になっている一斉授業の形には常に疑問を持っていて、子どもが良いと感じるものは良いもの、という信念もありました。
それでもやっぱり社員の人に言おう、と思った契機になったのは先日参加した勉強会。
説明責任があるとは思っている、という私の言葉に深く頷きつつ、
「あなたの一言が塾を変えるかもしれないよ」
と言った人がいました。
私の基本的な生きるスタンスは「他人は他人、自分は自分」です。
多分今もその考えは変わりません。
他人の考えを変えたいともあまり思いません。傲慢だと思います。
でも、「あなたの一言が塾を変えるかもしれないよ」と言われた時、今いるこの場所に、何かちょっとでも変化を起こすことが出来たら、なんて素晴らしいだろうと思いました。
自分の学習のコントローラーを自分で持つこと(個別化)
集団の力を使って学習すること(協同化)
このふたつは十数年の自らの学生生活の中でも有効であると感じた考え方であり、
教育の勉強をする中で、これからの時代はこの考え方に則っていくべきだと思ったものでもあります。
それが絶対に間違いのない考え方であるとは思いません。
でも、「これでいきたい」と強く思った一個人として、隠れて実践するのではなく、表に出してみようと思いました。
「こういう考え方をする人がいる」と知ってもらうだけでも、小さな変化を作れるのではないかと思いました。
だから、「社員に実践報告をする」というチャレンジをしました。


なのに!!
読んでもらえば分かるように、信念に関わることを、まるで言うことが出来なかった。
まるでA君を真面目に勉強させるために教え合いをさせているのだ、という風にしか言うことが出来なかったのです。
それは、そういう話の進め方が一番風当りが少ないから。(もちろん事実だから、というのもありますが)
「そういう信念は塾には通用しない」
「受験勉強に即したものではない」
そういう反論を端から想像してしまった。
受験勉強としても(この時期ならば)有効な方法だと考えていたのに、それも言えなかった。
40-50分集中する力をつけなければいけない、というのは同感で、その力は小テストをまとめて課すことで付けようとしていたことも言えなかった。
何の戦略も持たずチャレンジしに行って、見事に玉砕。
「周りの大人は頭が固くて……」なんて話はよく聞くけれど、この事例で足りなかったのは明らかに私のほう。
その事実にものすごくものすごく腹が立つ!!


……と数日、腸が煮えくりかえっていたのですが、こうやって書き起こしてみると会話をしてみたことで良いこともありました。
まずは個別化が公式に認められたこと。
これで一斉授業(分からない子は聞いていても分からない、分かる子はずーっと暇!)をやらなくてよくなった。
もう一つは個人に合わせた進度を組めるようになったこと。
今までは同じ課題を個別化・協同化で解く形だったけれど、個人にあった課題をそれぞれと相談して組めるようになった。これはデカい!
一番欲しいものは得られなかったけれど、思いもよらずアイテムを得たかんじ。
やっぱりチャレンジってしてみるもんだ。


ーーーーー
急に「声出すの禁止!」って言ったら子どもたち、大混乱だから段階的にやっていこう。
と思っているあたり、まだ私の中の「他人は他人、自分は自分」は抜けていない。抜くべきだとも思っていない。
でも、こうやって思いもかけないアイテムを得られたのは、他者の考えを聞いたから。
子どもと一緒に何をするか、と大人と一緒に何をするか、は教育の両輪だと考えています。
全部一人でやるほうが、より理想には近いかもしれない。
でも理想をちょっと緩めるかわりに、自分にないものを得られる。もっと良い所に行けるかもしれない。
それが「共同」の本質なのかもしれません。