きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

空と陸

笹井宏之さんの「空と陸のつっかい棒を蹴飛ばしてあらゆるひとのこころをゆるす」という短歌が好き。最近好きになった。
昔はちょっと偉そうな歌だなぁと思っていたけれど。


最近、「憎しみ」について考える。
ウェストサイドストーリーのマリアは愛する人の死に際して「あなたたちが殺した。銃ではなくて、あなたたちの憎しみが」と言った。
人から発される憎しみの感情をモロに触れて思わず涙が止まらなくなったこともあった。
憎しみは、自己防衛とセットなのだと思う。自分を守るための棘。
けれどその棘は、人を傷つける。傷つけられた人はもっと鋭い棘で自分を守らなきゃいけなくなる。そして誰かを傷つける。その繰り返し。
憎しみ合いに触れるたびにうんざりしていた。だからその場からそっと離れるのが当たり前になっていた。
けれど、いつまでも逃げていられないことも、逃げても何も良いことがないこともわかってた。


笹井さんのいう「あらゆるひと」の筆頭には「自分」がいるのだろうな、とふと気づいてから、わたしはこの歌が好き。
許すってことは、きっと自分のなかに相手と同じ感情を認めることなのだと思う。
人より秀でたい思い、人をバカにしたい思い、人から認められたい思い、その結果としての憎しみ。
それは必ず自分の中にある。ないわけがないのだ。
「〇〇されたことはとてもショックだ。けれどあなたをそうさせた思いは、わたしの中にもある」それが許すってことじゃないだろうか。
わからない、わからないけれど今はそう思っている。


自分が今までしてきた悪い行動と相手の反応を思い返してみて、わたしは許されたかったのだなぁと、今、思う。
悪い行いは、やった瞬間に悪いって、わかってる。それでも謝れないのは、許してほしくて仕方がないからだ。
それは「あなたの行いを水に流してあげるよ。もうしないでね」と言ってほしいのではなくて、「〇〇したのはたしかに悪い。けれどそこに至ったあなたの思いはわたしの中にもある」そう言ってほしかったのだと思う。
醜い思いを存在するものとして、認めてほしかったのだと思う。


「空と陸」遠く離れているようで、境界線はあいまい。どこからが空なのか微妙だし、もしかしたら陸も空の一部かもしれない。
そんなふうに「わたし」と「あなた」の境界線をゆるめていきたい。
そこからはじめてみたい。


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自分がどこにいるか、みたいなこと

だれと、どのように関わっているか、みたいなこと。
何に価値を見出しているか、みたいなこと。
過去の体験の何が影響を与えているか、みたいなこと。
どういうふうな自分で在りたいのか、みたいなこと。


自分は今どこにいるのか、それを形成するたくさんの要素。
もう一度、何度でも考えたい。


ずーっと、同じ場所にいるのは良くない。
同じ人とばかり居るのはあんまり素敵じゃない。
同じ考えばっかり「いいね」「いいね」って言い合うもんじゃない。
そういうことに、今、気がつけてよかった。


世界中の人はいま何を考えているんだろう。
なぜ、その考えを持つに至ったのだろう。
がんばらんといけんね。

ベターな選択

最近、ボランティア先の小学校での振る舞いが盾についてきたなぁと思う。
ようやく!?というかんじではあるけれど…。
わたしは今、「わたし」として振る舞っている。
ほぼ嘘偽りのない「わたし」として。


例えば音楽の授業。
子どもたちは先生の話の最中にお喋りしてばかりだけど、ピアノが鳴ったら歌うし、リコーダーも吹く。
わたしは音楽の授業ってそれでいいんじゃないのかなぁ、と思ってる。
音楽をすることはすごく楽しい。
フワフワと楽しいなぁ~って思えれば音楽の授業は成功なのではないかと思う。
ピシッと立って歌うことが大事なんじゃない。向上心を持ってリコーダーの技術を上げることが大事なんじゃない。
だから、先生が話している最中のお喋りを、わたしはもう注意しない。
でも、わたしは大人だから、音楽の先生の気持ちだってなんとなく感じてしまう。
「いまはそんなに聞いてもらわなくていいや」と思っているんだろうなぁって時と、「ここはしっかりしたい」(授業の開始と終わりとか)と思っているんだろうなぁって時をわたしは感じている。
だから後者の時は、子どもに「先生、聞いて欲しいみたいだよ」と言う。
それでお喋りが止む時も止まない時もあるけど、わたしは音楽の先生の話をじっくり聞くようにする。


例えば、子どもとの距離の取り方。
全体を俯瞰できるようになりたいと思って、距離を広めに取っていた時期があった。
「先生、〇〇教えて」と言われても「友達に聞いてごらん」と言ってみたり。
でも、今現在、関わっている子どもたちにとってベターな振る舞いって違うのかもしれない。もっと、「こういう大人もいるんだ~」って大人の多様性を感じてもらうぐらい、がっつり関わるほうが彼らにとってプラスなのではないか…最近そんなふうに思う。
今日「〇〇教えて」と言われた時は、「友達に聞いてみない?」と誘ってみた。
「だれに聞けばいいの?」と言われたから「△△は暇そうだねぇ」「◻︎◻︎は同じことやってるよ」とまわりの状況をアドバイス
そうしたらすっと聞きに行っていた。そっか、彼女はだれに聞きにいけば良いのか分からなかったのか。


それでもやっぱり、何がベストかなんてわからない。
わたしの取った行動より、もっとよい行動があつたかもしれないし、なかったかもしれない。
だからもうベストには拘らない。わたしなりの、その場で思いつく限りのベターな行動を繰り返していく。

否定をしないところから

否定からは何も生まれない。
では全然納得のいかないことへは、どのように相対したらよいのだろう。


わたしはクラスでやる長縄が昔から大嫌い。
もともと運動が苦手だったこと、そしてプライドが人一倍大きかったこともあって、人に失敗した姿を見せ、かつ人に迷惑をかける可能性の大きい長縄は大の苦手だった。
今、大人となって、子どもたちの長縄記録会を見ていてもどことなく苦しさを感じてしまう。
「△△秒に〇〇回」の目標は、本当に子どもたちの目標なんだろうか?
先生の先生による先生のための目標ではないのだろうか?


行間休み。
休み時間返上で子どもたちと先生は長縄の練習をしていた。
週に1度その学校へ行くわたしは、今年もこの行事が始まってしまったと寒々しい思いを感じた。
担任の先生は普段から子どもたちを厳しく指導するひと。
長縄をとんでいる子どもたちへ向けて「〇〇!縄に入るのが遅い!」「はやく列をつめろ!」「〇〇~何やってんだよー!」と大声を飛ばしている。
わたしはその光景を見て、「わたしはどういうふうに振る舞えばいいだろう」と数秒ざざざっと考えをめぐらしていた。
「こんな行事なければいいのに」というのが心からの本心。
「でも、『こんなのおかしい!』ってボランティアであるわたしがいきなり発言するのは絶対ちがう」
「それに、ここでわたしが渋い顔をしても何も生まれない」と思う。
「でもでも、すでに先生の怒号に萎縮している子どもに発破をかけることもしたくない」と悩む。
子どもたちは互いにも厳しい言葉を投げつけ合っている。
「〇〇!ミスすんなよ!」「おいっフザけんなよ」「フザけてねーよ」
絶え間なく縄を跳びながらケンカもできるのは、それはそれでスゴイ。
結局わたしは、ミスした時は「ドンマイ!」と声をかけ、ギリギリのところで跳べた時には「ナイス!」と声を張り上げ、転んだ時には「だいじょぶかー」と言い、とにかく「子どもたちの心がちょっとでもあったかくなりそうな言葉」を投げかけ続けてた。
本当にこの行動がベストだったのか、よくわからない。
でも、厳しく注意を飛ばしていた先生がその日はじめて「ドンマイ」と声をかけた時、
縄を回していた子どもが「大丈夫、大丈夫ドンドンいこう」と言った時、
わたしの心はふわっと少し楽になった。
もしかしたら、わたしの言動は誰かにちょっとだけプラスの影響を与えられたかもしれない。



子どもたちは目標回数まであと少しの所まで跳んだ。
でもあまり嬉しくも悲しくもなさそう。
やっぱり子どもたちにとっての長縄記録回って強制されているものなんだろうなぁと思う。
わたしの言動はさらに子どもたちを追い詰めただろうか。
よくわからない。
あの場のあの時間、あのタイミングでのわたしのベストの行動は何だったのか、やっぱりどう考えてもわからない。

物語について

物語のなかには、いろいろな感情があって、いろいろな思想がある。
どんな登場人物にもその人なりの気持ちなり思いがある。


よく、「敵にも敵なりの正義がある」作品が賞賛されることがある。
それは、現実世界のあらゆる人に、その人なりの正義があるからなのだろうと思う。
物語を読むことは、たくさんの人の考えや思いを自分の中に育むことなのだろうな、と思う。


神話はなぜ、物語の形をとるのだろうとずっと考えていた。
それはきっと、感情をベースにすることでしか世界を築くことは出来ないからではないか。
たくさんの思いを反映できるのは、説明的な語り口ではなくて、物語なのではないか。
物語は、感情が行動を生み出すことを是とするものではないだろうか。

ダメな理由を探してた

この間、現職の先生と話をした。


私「学校の制度に疑問があって…例えば『45分座っていられること』を大事と思えなくて…」
先生「でも、集中力をつけるのって大事じゃないかな?」
私「集中力って嫌なことをガマンした時につくんでしょうか?好きなことにガッツリのめり込んだ時、集中することを学ぶのかなぁって思うんです。」
先生「なるほどね」
私「やっぱり、自分が良いと思えないことを子どもに諭そうとしても、全く伝わらないと思うんです。昔、アルバイト先で『授業を聞きたくない時は聞かないほうがいい』と思っているのに『聞きなさい』と言ったことがあって、全く伝わらないなぁ…と思いました」
先生「でも、そう思えなくても子どもに伝えたことは偉いね」
私「偉いんですかね…?心から良しと思えないことを諭しても意味ない気がするんです」
先生「でもみんなで守るルールがあるからね。嫌なことはしなくていいって子どもが思ってしまうのは良くないんじゃない?」
私「……」


わたしは、いったい誰にいいわけしているんだろう。
何故、心から良いと思ったことを言わないのだろう。
「言えない」理由をごまかしているのだろう。
思い通りにならないと愚痴を言っているのは何故だろう。


制度が自分好みになるのを待っているだけでは、何もしないのと同じ。
良いと思うことは、言い訳せずにやってみよう。
そこからしか始まらない。

結局、わたしはどう在れるのだろう

最近は自分の在り方について、よく考える。
人に対して、どういう状態で相対したいのか。


わたしは「人が困っていたら助けたい」「楽しそうだったら一緒にやりたい」
でも、「困ってないんだったら頼らないでほしい」「自分が楽しいと思えないことは、否定しないけど参加しない」
ごくシンプルに人に対してこう思ってる。


一番したいことは、「色んな人が出入りする大きな家みたいな空間をつくること」「人が自由に楽しんでいる状態を楽しむこと」「時々他の人と楽しいことをシェアすること」
得意だなぁと思うことは、「なんとなく人の気分を察すること」


一番したくないことは、「自分が是としないことを他人に諭すこと」「怒鳴ること」「つい人を否定する言葉が口をついてしまうこと」
苦手だなぁと思うことは、「集団を統率すること」「物事をはっきり言うこと」


この1年間さまざまな場所で人と関わりながら、この「在りたい」と思う姿から離れれば離れるほど、心が固まるのをリアルに感じてきた。
「授業を聞きたくない時は聞かないほうがいい」と思いながら「話を聞きなさい」と諭した時。
集団をまとめなければと焦ってまとまらない個々の人の気持ちを無視した時。
「ほかの子どもに示しがつかない」という理由で子どものやりたいことを止めた時。
「本心と違うことをした」と思う時、さぁーっと心が冷めていく。


本質的な部分で「こう在りたい」と思うことのできない行動は、取るべきでないと思う。
自己矛盾していることは、多かれ少なかれ人に伝わってしまうから。
本質的な部分で「こう在りたい」と思う行動を増やしていきたい。
そのほうが自分の行きたいところに行けるような気がする。