きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

全然分からない

諸君これより世に出られたならば、人の難苦といい煩悶というものの大部分が、本来知るべかりしことを未だ知らず、また教うべくして教えざる人のあった結果であることを、また着々として実験せられるであろう。
柳田國男「青年と学問」



久しぶりに、この一節のことを思い出した。
むかし、ものすごく苦しかった時に救われた文章。いろいろなことを学べば楽になるかもしれない、そう思ってた。
あの日からわたしは沢山学んだし、そのぶんだけ見える世界もどんどん変わっていった。それはもう、間違いのないこと。
だから今、苦しかったりモヤモヤしたりしていることの見え方もどこかで変化してくるはず。
そう信じてる。


ーーー
ケンカの仲裁が苦手。
なんていうか、話を聞きすぎてしまうし待ちすぎてしまう。
時間的な制約がきてモヤモヤしたまま子どもを放ってしまう。
それでも、子どもの話をグイグイ引き出して善悪のフレームを提示して、次回の対応策を提示する、裁判官のような仲裁者になりたいか、というとそんなことは全く思えない。
そうではない仲裁の仕方をわたしは学びたい。
今日ある先生が言っていた「何が一番嫌だったの?」という問いかけはよかったな。
直感だけど大切なのは問いかけ方と問いの内容だと思う。


今日は言い争った後に馬乗りになった男の子と、馬乗りにされた男の子の仲裁に入った。
「〇〇は何故怒っているの?」「オレが叩いたって言い掛かりをつけたのが嫌だった」「△△にどうしてほしいの?」「謝ってほしい」「△△は〇〇が叩いたって言ったの?」「叩こうとしたのを感じた」「だから△△は謝ろうと思えないの?」「……」
そのまま休み時間は終わってしまった。三々五々。
結局どうするのが良かったんかなぁって思って、馬乗りにされた子どもに「はっきりと相手を注意して欲しかった?」と聞いてみた。
曖昧な返事だったし、結局よく分からなかったけれど、「中休みはケンカで潰れちゃったから昼休みは先生と遊びたいな〜」と言われた。
ムズかしいな。
「嫌な思いをしても馬乗りになったり殴ったりするのは良くない」って言えばよかったのだろうか。
「△△が謝りたくない理由を言いなさい」って事を急かせばよかったのだろうか。
いや、ちがう。絶対そこじゃない。
でも、どうすれば良いのか全然分からないんだよなぁ。

うれしかったこと

p84
『私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない』と」。
ディミィトリスは瞬きもせず私の目を真っ直ぐに捉え、力強く言い切った。弱くなった午後の日の光が部屋に満ち、ムハンマドのつくるスープの匂いが調理場から流れてきた。
梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』



大好きな一節。
このあいだ小学校の図書の時間に読んだ谷川俊太郎の詩集にも似たような言葉があった。
関係ないことなど、なにもない。


図書の時間に、静かに本を読んでみた。
壁に寄っ掛かりながら、かなり集中して読んだ。
うしろのほうでケンカ前のやわい言い争いがあるのも気にはなっていた、でも、子どもの前で本に浸ってみたいと思った。
はじめ、ひとりの女の子が近寄ってきた。
本から目をあげたら「集中してるの?」と聞かれた。
小さく頷いたら何も言わずに席へ戻って行った。
いったい彼女は何を聞きたかったのだろう。普段、そんなに話しかけてくるひとではない。
つぎに、いつも意思のつよい女の子が「こっち来て一緒に座ろう」と誘ってくれた。
近くの椅子に腰をおろして、一緒に本を読んだ。
ときどき隣の男の子が話しかけてきたけれど、やっぱりゆるゆると読書へ戻って行った。


本というものは、とくに物語や詩は、不思議。
ひとを、すうっと穏やかにする力がある。
そういう空気は伝染する。ゆるゆると。けれど確かに。
こういうふうにひとと在りたいな、と思った。
ゆるゆると。けれど確かに。


星野道夫さんの『旅をする木』の「もうひとつの時間」が好き。
アラスカへ行った女性の気持ちは、わたしの中にも流れている。

「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったかって?それはね、私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと…東京に帰って、あの旅のことをどんなふうに伝えようかと考えたのだけれど、やっぱり無理だった。結局何も話すことができなかった…」

物語も遠い遠い世界のひとつだとわたしは思ってる。
遠いところをふと思うとき、ひとはふっと穏やかになってしまう。
その時間がとても愛おしいとわたしは思う。

今日という日

明らかに悪い行動。
ゲーム中の明らかなズル。
そのズルを怒声と迫力で押し通してしまうこと。
人の行動のいちいちに「ズルだ、ズルだ」と言うこと。
自分の理論を相手に押し付けること。
それを見た他人であるわたしは、大人であるわたしは、何をしたら良いのだろう。


担任の先生はたくさん怒った。
「もう〇〇とは遊ぶな」
とみんなに言った。
そんな先生に便乗してその子の悪いところを並べ立てる人もいれば、「まぁ気にすんなよ〜」っておちゃらけて慰める人もいた。
その子は「もうこんな学校来ない」「ふざんけんな」と担任の先生を罵倒した。
わたしはそんな話を相槌を打ちながら聞いていた。彼の隠れたメッセージはどこにあるのだろうと思いながら。
でも休み時間になったら、やっぱりみんなと遊んでいたし、やっぱりいつも通りズルばっかした。


結局、1年間同じことばかりに悩んでいる。
悪いことをした人は、けっして悪い人ではない。
悪い行動の原因が一番大切。
でも、他の子の安全を自由を守るのは先生の仕事ではないのか?
アメリカでは誰かが騒ぎを起こすと、警備員がその人を小部屋に連れて行くという。そして何事もなかったかのように授業はつづく。懲罰が正解なのか?


長期的にするべきことはわかる。話を聞くのだ。そして待つ。
他人の行動を変えられると思うなんて傲慢だ。
でも、短期的に、事が起きたその時に、わたしがすべきことって何だろう。
生きていて、こんなに最適解が見つからないことはそうそうない。それほど同じことばかり逡巡している。


ーーー
今日、ボランティアに行くのがすこし憂鬱で、怒鳴り声が、罵声が、意地悪な声が、頭の中をリフレインしていた。
でもふと、スティーブジョブズの「毎朝、今日が最後の日でも今日の予定を過ごすか?と自分に問い掛ける」という話を思い出した。
わたしは「今日の夜、あなたの命はおしまいですよ」と言われたとしても、きっと小学校に行くなぁと思った。
一番試される場所。幸せを願ってやまないひとたちとの一日。
今日も行ってよかった、こんなふうに毎日は続いてゆくのだと思う。


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氷になるだなんてばか者

p123
この種の不適切な行動(exいばる、自分勝手、人の誤りを楽しむ、自慢する、いじめる)は、子どもたちの権力へのニーズを満足させようという試みであり、自己有能感に対する強い欲求であると考えることができます。

p134
問題行動を起こす子どもたちを支援するために、まず取り組むべきことは、「問題行動の裏に隠れた暗号を解く」こと、つまり、子どもたちが問題行動を通じてどのような信号を発しているかを解明することです。

コンスタンス・マクグラス『インクルーシブ教育の実践』



まだ知らなきゃいけないことがいっぱいある。
今日はどんな声を聞けるだろう。

行動を

p190
対話をしていくこと。ただ対話をしていくこと。相手を変えようとしない行動。しかし、結果として何かは変わるかもしれない。ただ対話をする。変えられるのは自分だけである。
森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』


p88
すなわち、誰もが同じ立場にいるということだーどんな人も想定を持ち、自分の想定に固執し、神経質に不安な状態にある。根本的なレベルでは、人の状態は同じなのだ。
デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』



自分にとって「受け入れられないもの」に相対したときどうするか。
おそらく、「話すこと」「聞くこと」に終始するのだろう。
「どんな意味をこめてこの行動をとったんですか?」「あなたが一番したいことを教えてください」


子どもが「死ね」「ジャマ」「あっち行ってろ」そんなことばっか言うから、つい「そういう言葉はよくない」って言ってしまう。
そうしたら「ごめんね、イライラしてるんでね」って反抗的に言われた。
そう、きっと「どうしてそんなこと言うの?」って聞いてみるほうが良いのだ。
相手の行動を変えようと思うのは傲慢だ。
聞いてみること、そこからしかはじまらない。

空と陸

笹井宏之さんの「空と陸のつっかい棒を蹴飛ばしてあらゆるひとのこころをゆるす」という短歌が好き。最近好きになった。
昔はちょっと偉そうな歌だなぁと思っていたけれど。


最近、「憎しみ」について考える。
ウェストサイドストーリーのマリアは愛する人の死に際して「あなたたちが殺した。銃ではなくて、あなたたちの憎しみが」と言った。
人から発される憎しみの感情をモロに触れて思わず涙が止まらなくなったこともあった。
憎しみは、自己防衛とセットなのだと思う。自分を守るための棘。
けれどその棘は、人を傷つける。傷つけられた人はもっと鋭い棘で自分を守らなきゃいけなくなる。そして誰かを傷つける。その繰り返し。
憎しみ合いに触れるたびにうんざりしていた。だからその場からそっと離れるのが当たり前になっていた。
けれど、いつまでも逃げていられないことも、逃げても何も良いことがないこともわかってた。


笹井さんのいう「あらゆるひと」の筆頭には「自分」がいるのだろうな、とふと気づいてから、わたしはこの歌が好き。
許すってことは、きっと自分のなかに相手と同じ感情を認めることなのだと思う。
人より秀でたい思い、人をバカにしたい思い、人から認められたい思い、その結果としての憎しみ。
それは必ず自分の中にある。ないわけがないのだ。
「〇〇されたことはとてもショックだ。けれどあなたをそうさせた思いは、わたしの中にもある」それが許すってことじゃないだろうか。
わからない、わからないけれど今はそう思っている。


自分が今までしてきた悪い行動と相手の反応を思い返してみて、わたしは許されたかったのだなぁと、今、思う。
悪い行いは、やった瞬間に悪いって、わかってる。それでも謝れないのは、許してほしくて仕方がないからだ。
それは「あなたの行いを水に流してあげるよ。もうしないでね」と言ってほしいのではなくて、「〇〇したのはたしかに悪い。けれどそこに至ったあなたの思いはわたしの中にもある」そう言ってほしかったのだと思う。
醜い思いを存在するものとして、認めてほしかったのだと思う。


「空と陸」遠く離れているようで、境界線はあいまい。どこからが空なのか微妙だし、もしかしたら陸も空の一部かもしれない。
そんなふうに「わたし」と「あなた」の境界線をゆるめていきたい。
そこからはじめてみたい。


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自分がどこにいるか、みたいなこと

だれと、どのように関わっているか、みたいなこと。
何に価値を見出しているか、みたいなこと。
過去の体験の何が影響を与えているか、みたいなこと。
どういうふうな自分で在りたいのか、みたいなこと。


自分は今どこにいるのか、それを形成するたくさんの要素。
もう一度、何度でも考えたい。


ずーっと、同じ場所にいるのは良くない。
同じ人とばかり居るのはあんまり素敵じゃない。
同じ考えばっかり「いいね」「いいね」って言い合うもんじゃない。
そういうことに、今、気がつけてよかった。


世界中の人はいま何を考えているんだろう。
なぜ、その考えを持つに至ったのだろう。
がんばらんといけんね。