きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

こういう一日

「ひとを傷つけないようにしようとするのは傲慢」だとあるひとが言っていた。


わたしは何故かささくれ立っていて、今までとこれからを比較してはこれからが不安で仕方なくて、そんな気持ちで横断歩道の前に立っていた。
車が主体の土地だからなのか、右折車はわたしを無視して何台も走っていく。
わたしはとても傷ついていた。
なんで止まってくれないのだろう。このままだと信号が赤になってしまう。都会だったらこんなこと、あり得ないのに。
そんなとき、「ひとを傷つけないようにしようとするのは傲慢」という言葉を思い出した。
右折した車に乗っていた人たちは、自分の行動がわたしを傷つけたことなど思いもよらないだろう。
わたしだって、こんな気分でなければ傷ついたりしない。
わたしの受けた傷の責任のすべてが車に乗ったひとたちにあるなんて思ってない。
でも彼らの行動をきっかけとしてわたしが傷ついたのも事実。
こんなふうにひとは簡単にひとを傷つけられるのだと思った。


たまたま一台の車が止まってくれた。
わたしは一礼して走って横断歩道を渡った。
ひとが簡単に誰かを傷つけられるように、こんなにも簡単に誰かを救えるのだと思った。
そんな一日。

終わる瞬間

いのちとは心が感じるものだからいつでも会えるあなたに会える
俵万智『オレがマリオ』



まだ見ぬ人より今まで出会ったひとたちのほうが大事。
ももう会えなくなる人たちのために生きることは出来ないのだと思うと、かなしくなる。
社会の貧困も戦争をする世界も、ほんとうはどうだっていい。
でも簡単に誰かを殴ってしまう彼のことは心配で心配でしかたがない。
余計なお世話だ。
それでもわたしは彼のためにもっと何かができたんじゃないだろうかって悔恨の思いが止まらない。
「たられば」の話なんて無意味なのだけれど。


「終わる瞬間」ってにがてだな。
終わりへ向かって行くのはほんとうに好きなのに。
わたしはもう彼のために生きることができない。
どんなに素敵な教師になったって、社会のトップに立って教育をカンペキなものに変えることができたとして、彼の小学生としての一年はもう終わってしまったのだ。
そしてわたしはおそらく、もう二度と彼に、彼らに会わないだろう。
「終わる瞬間」のそのときに、わたしは何をしたらいいんだろう。
それがわからない。

振り返りって大事だねぇ

思い込み、思考のクセ、どうしても守りたいもの…
今まで存在すら知らなかった一つ一つに気づいてゆくことが振り返りなのだなぁ。
「きみ、そこにいたんかぁ」そんなふうに自分の中にある色々を発見していく。
気がついたところで何かがいきなり改善するわけでも、考え方を変えたりできるわけでもないけれど、楽なきもちになるね。
「世界が悪く見えるのは自分の考え方のせい」って考え方、物事の解決には結びつかないんじゃないかなぁって苦手だったけど、きっとほんとうだ。
世界は、自分が変わることからしか変わらない。


そして、自分ひとりでする振り返りと、人とのかかわりの中でする振り返り、どちらもものすごく大切。
わたしは他人の力で自分が変わると、完璧に信じていなかった。
自分に気づきを与えるのは自分だけだと思ってた。
たしかに「他人が気づきを与えてくれる」ことは少なめだけれど、他人とのかかわりの中からしか気がつけないことがある。
他人の力をいま改めて信じることができてよかった。
わたしは教師という他人として、子どもたちとかかわってゆくのだ。

あたたかい一日

p56
才能とは「繰り返し現れる思考、感情および行動パターンであり、何かを生み出す力を持つ資質」である。
マーカス・バッキンガム『さあ、才能に目覚めよう』



こう考えると、才能も思考のクセも欠点も紙一重かもしれないな。
ーーー
わたしは歩いているときに、特に色んなことを考えるのだと気づいた。
自分の思考のクセをモヤモヤと考え続けながら歩いた一日だったなぁ。

外へ外へ

外に学びに行くの、本当に面白いな。
例えば

p315
感謝は肯定の言葉であっても、多くの場合、相手を評価する言葉である。
マーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC人と人との関係にいのちを吹き込む方法』

こういう言葉って本で読んだ時は120%納得するけれど、実際にしてしまう。
そういう「勉強したつもり」を指摘してくれるのって外部のひと。
まだまだ変われる余地がいっぱいあることに気がつく、そんな一日。

全然分からない

諸君これより世に出られたならば、人の難苦といい煩悶というものの大部分が、本来知るべかりしことを未だ知らず、また教うべくして教えざる人のあった結果であることを、また着々として実験せられるであろう。
柳田國男「青年と学問」



久しぶりに、この一節のことを思い出した。
むかし、ものすごく苦しかった時に救われた文章。いろいろなことを学べば楽になるかもしれない、そう思ってた。
あの日からわたしは沢山学んだし、そのぶんだけ見える世界もどんどん変わっていった。それはもう、間違いのないこと。
だから今、苦しかったりモヤモヤしたりしていることの見え方もどこかで変化してくるはず。
そう信じてる。


ーーー
ケンカの仲裁が苦手。
なんていうか、話を聞きすぎてしまうし待ちすぎてしまう。
時間的な制約がきてモヤモヤしたまま子どもを放ってしまう。
それでも、子どもの話をグイグイ引き出して善悪のフレームを提示して、次回の対応策を提示する、裁判官のような仲裁者になりたいか、というとそんなことは全く思えない。
そうではない仲裁の仕方をわたしは学びたい。
今日ある先生が言っていた「何が一番嫌だったの?」という問いかけはよかったな。
直感だけど大切なのは問いかけ方と問いの内容だと思う。


今日は言い争った後に馬乗りになった男の子と、馬乗りにされた男の子の仲裁に入った。
「〇〇は何故怒っているの?」「オレが叩いたって言い掛かりをつけたのが嫌だった」「△△にどうしてほしいの?」「謝ってほしい」「△△は〇〇が叩いたって言ったの?」「叩こうとしたのを感じた」「だから△△は謝ろうと思えないの?」「……」
そのまま休み時間は終わってしまった。三々五々。
結局どうするのが良かったんかなぁって思って、馬乗りにされた子どもに「はっきりと相手を注意して欲しかった?」と聞いてみた。
曖昧な返事だったし、結局よく分からなかったけれど、「中休みはケンカで潰れちゃったから昼休みは先生と遊びたいな〜」と言われた。
ムズかしいな。
「嫌な思いをしても馬乗りになったり殴ったりするのは良くない」って言えばよかったのだろうか。
「△△が謝りたくない理由を言いなさい」って事を急かせばよかったのだろうか。
いや、ちがう。絶対そこじゃない。
でも、どうすれば良いのか全然分からないんだよなぁ。

うれしかったこと

p84
『私は人間である。およそ人間に関わることで私に無縁なことは一つもない』と」。
ディミィトリスは瞬きもせず私の目を真っ直ぐに捉え、力強く言い切った。弱くなった午後の日の光が部屋に満ち、ムハンマドのつくるスープの匂いが調理場から流れてきた。
梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』



大好きな一節。
このあいだ小学校の図書の時間に読んだ谷川俊太郎の詩集にも似たような言葉があった。
関係ないことなど、なにもない。


図書の時間に、静かに本を読んでみた。
壁に寄っ掛かりながら、かなり集中して読んだ。
うしろのほうでケンカ前のやわい言い争いがあるのも気にはなっていた、でも、子どもの前で本に浸ってみたいと思った。
はじめ、ひとりの女の子が近寄ってきた。
本から目をあげたら「集中してるの?」と聞かれた。
小さく頷いたら何も言わずに席へ戻って行った。
いったい彼女は何を聞きたかったのだろう。普段、そんなに話しかけてくるひとではない。
つぎに、いつも意思のつよい女の子が「こっち来て一緒に座ろう」と誘ってくれた。
近くの椅子に腰をおろして、一緒に本を読んだ。
ときどき隣の男の子が話しかけてきたけれど、やっぱりゆるゆると読書へ戻って行った。


本というものは、とくに物語や詩は、不思議。
ひとを、すうっと穏やかにする力がある。
そういう空気は伝染する。ゆるゆると。けれど確かに。
こういうふうにひとと在りたいな、と思った。
ゆるゆると。けれど確かに。


星野道夫さんの『旅をする木』の「もうひとつの時間」が好き。
アラスカへ行った女性の気持ちは、わたしの中にも流れている。

「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったかって?それはね、私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと…東京に帰って、あの旅のことをどんなふうに伝えようかと考えたのだけれど、やっぱり無理だった。結局何も話すことができなかった…」

物語も遠い遠い世界のひとつだとわたしは思ってる。
遠いところをふと思うとき、ひとはふっと穏やかになってしまう。
その時間がとても愛おしいとわたしは思う。