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きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

思考の手助けとして

ツァラトゥストラはかく語りき、という曲について。
作曲者はリヒャルト・シュトラウスニーチェの同名の著作に感銘を受けて作曲されているが、ニーチェの著作をそのまま楽譜におこしたのではないと自身で発言している。
交響詩の形をとるこの曲は、途切れることなく演奏されるが、各所にニーチェの著作から取られた小題が付けられている。
いくぶんの関わりがあるこの曲を自分なりの咀嚼をしていきたい。
なお『ツァラトゥストラはかく語りき』の引用は岩波文庫のものを用いる。


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◆序章
映画「2001年宇宙の旅」で使用されたことでも有名なトランペットのファンファーレからはじまる。調性はハ長調ハ長調およびハ短調は「自然」を表す調として曲を通して、「人間」を表すロ長調・短調と対比させられていく。
ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』の「序章」では、ツァラトゥストラが山をくだる場面が描写される。下界を去り山にこもって知識を蓄えていたツァラトゥストラは、太陽の光の恩恵を受ける生き物がいなければ太陽自身も虚しいように、自らの知恵を授ける人間なしには己も虚しいものでしかないと考えたのである。
希望を携えてツァラトゥストラは「没落」していく。
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◆世界の背後を説く者について
「悩みと不可能、-それが一切の世界の背後をつくったのだ」
「世界の背後」とは端的に言うとキリスト教のことである。ニーチェはアンチ・キリスト者であった。「世界の背後」、キリスト教の説く神や天国を見ることは出来ない。見えもしない美しいものに縋る人間の弱さ、ニーチェはそういったものを徹底的に拒否したのである。
ツァラトゥストラ自身も一度は「世界の背後」を良しと考えたという。「この世界は陶酔に似たよろこび」だ、と。
〈序章〉の「自然」に畏怖(チェロとコントラバスのきざみで表現されている)した者は、地上を超えた希望を抱かざるをえないのだ。この状態は、ニーチェに言わせれば「病気」である。
ホルンによって奏でられるグレゴリオ聖歌に導かれて展開される弦楽器の「信仰の歌」の下でも常に「畏怖」の動機が奏でられている。(冒頭のビオラソロなど)ちなみにこの「信仰の歌」は「人間」を表す調性であるロ長調で書かれている。調号の全くないハ長調と異なり、ロ長調はシャープが6つもあり、複雑怪奇な「人間」表すに足る調性であるのだろう。
どこか地上でない遠くへ行くかのように、「信仰のテーマ」はディミヌエンドしていく。最後まで残ったビオラソロは上昇音階を奏で、上へ上へ、と天国を仰ぎ見る人間のようである。
このようにツァラトゥストラも一度は良しと思い、また山から下界に下って来たツァラトゥストラが目にした多くの人間が信仰していたもの、それが「世界の背後」であった。
しかしツァラトゥストラは地上を超えた希望ではなく、身体や大地に根ざした「大地の意義」を良しと語る。そして「大地の意義」の体現者たる「超人」がこの世を治めるべきであると大衆に向かって声高に説くのである。(余談ではあるが、ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』はヒトラーの愛読書でもあったそうである。この「超人」の思想がヒトラーナチスによって用いられたことは歴史の悪夢であるのだろう。ちなみにリヒャルト・シュトラウスヒトラーは同時代人であり、ごく密接に、しかし相反しながら関わり合っていた。)


◆大いなるあこがれについて
ニーチェの著作では、ツァラトゥストラが自らの魂に多くのことを教える章段である。「小さな羞恥と道徳を洗いおとし」、「否」または「然り」という権利、すなわち「意志」を与え、魂に「自由をとりもどし」た。多くを与えられ、愛に満ちた広大な魂は「静かな、あこがれに満ちた海」すなわち「生」そして「死」へと漕ぎ出していく。
チェロから1stヴァイオリンに受け継がれる「あこがれ」の動機で始まるリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」のこの章は、再び遅いテンポで「信仰のテーマ」(木管など)やグレゴリオ聖歌(ホルン・オルガン)を繰り返し、「自然」(イングリッシュホルンオーボエ)を覆い隠そうとする。
しかしチェロによって提示された「衝動」の動機が畏怖(ビオラ)を蹴散らすようにクレッシェンド、高音へと移っていき、自然(トランペット)と相まって最高潮へ達し、次の章へと移行する。
「衝動」は身体つまり大地に根ざした意志であろうか。背後を求めていたツァラトゥストラの魂はすでに無く、「自分の意志」で生きるものとなったのである。
〈br〉
◆喜びと情熱について
ニーチェの著作では「喜びの情熱と苦しみの情熱」という題が付けられている。ツァラトゥストラを「苦しめる情熱」は最高の目的を持つことで「よろこびの情熱」となったのだという。ニーチェは「嘔吐感そのものが、翼を生み、泉をさがしだす力を創造する」や「自分の敵を誇りとしなければならない」など、悪から善、苦しみから喜びといった発想の転換を頻繁に行っている。
「あこがれ」の動機から発展した「情熱の主題」(オーボエとヴァイオリンから始まる)と、「衝動」(ファゴット、低弦)はぶつかり合い、高め合いながらフォルティッシモとなり、全オーケストラで「喜び」(ディオニュソス的熱狂)を奏でる。「喜び」はしばらく続くが、突然の「飽満=うんざり」がトロンボーンによって差し込まれる。徐々に解体されていく「喜び」を尻目に、低音によって「飽満」は二度繰り返される。
この章で繰り広げられた「喜び」とは何だろうか。リヒャルト・シュトラウスツァラトゥストラはかく語りき」では次章にあたる「墓の歌」では「青春の死」が描かれている。「青春の夢と最愛の奇蹟」は「わたしの心にかかるもの」であり、いつしか殺害されるものである。「青春」を殺した者は「かれ」とのみ書かれ、詳しく記されない。リヒャルト・シュトラウスは「喜び」たる「青春」が、「飽満」すなわち時の流れによって殺されていくのだと考えたのではないだろうか。ニーチェの「完全になったもの、すべての熟れたものはー死にたいと思う!」という言葉の通り、時が流れ、「飽満」状態となった「喜び」自身が自らを殺したのである。
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◆墓の歌
「青春の夢と最愛の奇蹟」は死に、ツァラトゥストラはその墓へ、「生の常緑の葉飾りを供え」に行く。
「情熱」(オーボエ)や「あこがれ」(ファゴット、チェロ、コントラバス)は、1stヴァイオリンをはじめとした楽器に受け継がれ奏でられていく。その響きは先ほどまでとは打って変わり、静かで沈痛なものだ。しかし曲はここで終わることなく、次へと続いていく。「傷を負わせることのできないもの、葬ることのできないもの」つまり「わたしの意志」があるからである。
この章で一度、トランペットが「自然」の動機をメゾフォルテで小さく吹いているのも示唆的である。
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◆学問について
学者は学問の由来を「野獣に対する恐怖感」であると言った。チェロのソリ(自然の動機)が組み合わさって奏でるこの章の冒頭は、楽器の数が増すごとに転調し、「自然」をなんとか解き明かそうとする学問のようである。しかしツァラトゥストラは「野獣に対する恐怖感」としての学問を否定する。
「人間はきわめて原始的な、勇気ある動物どもに嫉みを感じ、そのすべての長所を奪い取った。こうして人間ははじめてー人間になった」
突然のフォルティッシモ、そしてフォルテピアノによって導かれた「あこがれ」(チェロ、ヴァイオリン、フルート)そして「情熱」は自然に立ち向かい、勇気を獲得しようとした人間の表れだろうか。
続いて短い舞踏が行われる。ツァラトゥストラは学者たちに言う。「あなたがた自身を超えて踊ること」そして「哄笑すること」を学べ、と。超人になるためには、自らを克服しなければならない。その方法は踊り、笑うことなのである。しかし踊りはすぐに止み、「自然」と「飽満」が繰り返されながら速度を増し、次の章へと向かう。
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◆癒されてゆく者
前章から雪崩れるように始まった「癒されてゆく者」は、「飽満」と「自然」が対立し合いながら進んで行く。
ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』での該当箇所「快癒に向かう者」は、ツァラトゥストラが山の中で永遠回帰の思想(「一切の事物が永遠に回帰し、わたしたち自身もそれにつれて回帰するということ」)を受け入れられずに倒れ、そして動物たちの語りかけをきっかけとして回復する章である。「序章」で山を降りたツァラトゥストラは再び山へ帰ってきていた。「なにを語っても無益」な下界に疲れ果てていたからである。一方、山は「一切の存在がことばになろうとする」(「帰郷」)場所である。ここで再びツァラトゥストラは「あまりにもたくさんの蜜を集めた蜜蜂のように」(「序説」)自らの知恵を貯えたのであろう。
「自然」そして「飽満」の三連符を繰り返し、ぐるぐるまわるように(フルート、ヴァイオリン、コントラバス)加速した後、木管による大きな「飽満」。そして冒頭を思い起こさせる「自然」(トランペット)。しかし冒頭とは異なり、この「自然」のフォルティッティッシモの後、G.P、全オーケストラが休止する。
「嘔吐、嘔吐、嘔吐―――なさけなや!」
ツァラトゥストラは自らの永遠回帰の思想の前に倒れたのである。ツァラトゥストラが忌み嫌った「人間」が「永遠にくりかえしやってくる」思想なのだから。
フォルティッシモピアノの後、息も絶え絶えな「あこがれ」の断片(ファゴット、ホルン)や、「飽満」の断片(コントラファゴットバストロンボーン、コントラバス)が奏でられ、あこがれと飽満が組み合わさり加速、前章でも見られた舞踏へと突入する。テンポは9/4のワルツである。
動物たちはツァラトゥストラに言った。
「薔薇と蜜蜂と鳩のむれのもとに行きなさい!なにより歌をうたう鳥のもとに行きなさい!」そして「新しい歌であなたの魂を癒しなさい!」


◆舞踏の歌
全体の1/3を占める3拍子の踊りである。癒されたツァラトゥストラが動物に言われたように、そして自ら意志したように、自らを克服して超人になるための歌と踊りを行っているのだろう。「自然」(トランペットと1stヴァイオリンの掛け合い)のメロディーは1stヴァイオリンのソロを導き出す。そこには「畏怖」の動機も登場する。回復しはじめたツァラトゥストラが、そろそろと踊り出したことを表現しているのだろうか。対旋律のオーボエや、コントラバス、ホルンは絶えず「自然」を奏でている。ニーチェの著書の「第二の舞踏の歌」に見られるような、「生」とツァラトゥストラとの追いかけっこが表されているかのようである。木管の「おどり」の音型、弦楽器の3連符の下降音階、そして全オーケストラによる「舞踏」。時折見られる、弦楽器の上昇音階からのグリッサンドハーモニクスは、ツァラトゥストラが嫌う「重力の魔」から抜け出した浮遊を表しているのだろうか。
ひととおり「舞踏」のテーマが終わると、フルートやヴァイオリンなどによるへミオラの下降音階、そしてフォルティッシモの「飽満」。懐かしむような「情熱」(ホルン)や「喜び」(イングリッシュホルン)が繰り返される中、それを遮るように何度も「飽満」が登場する。何に対する「飽満=うんざり」なのだろうか。
ニーチェの著作には「舞踏の歌」と「第二の舞踏の歌」のふたつの章があり、どちらもツァラトゥストラと「生」の関係が描かれている。ツァラトゥストラははじめ、「愛さないではいられない!」と必死に「生」を追うが、ついに「いつまでもおまえの愚かな羊飼いを演じていることに、ほとほとわたしは飽きた!」と告げる。ツァラトゥストラと「生」の関係は完璧にはうまくいっていないのである。両者は「心底愛し合ってはいない」ツァラトゥストラは「生」に「飽満=うんざり」してしまう時もあるのである。
「生」はうんざりしているツァラトゥストラに告げる。「まもなくこのわたしを、この『生』を見捨てようと考えること」つまり「死」をツァラトゥストラが考えている、と。見事に指摘されたツァラトゥストラは「生」に永遠回帰の思想を告げる。その時、2人は一緒に泣いた。そして「そのとき『生』は、わたしの『知恵』のすべてにまさって、わたしにはいとしいものと思われた」。ツァラトゥストラにとって、「知恵」は山を下るきっかけとなった、誰かに与えるべき「あまりにもたくさんの蜜」すなわち永遠回帰の思想そのものであったはずである。しかし、その思想を理解するに至って、彼は何よりも「生」を愛した。それは「一切を新たに、そして永遠に、万物を鎖でつながった糸で貫かれた、深い愛情に結ばれたものとして」「この世を愛した」からであろうか。ハ長調、「自然」の調性で奏でられる、フォルティッティッシモの最後の舞踏は、その調和の絶頂を表すかのようである。
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◆夜の彷徨者の歌
踊りが絶頂に達した後には、12回の鐘が鳴る。「真夜中」を告げる鐘、「死」の訪れである。
「完全になったもの、すべての熟れたものはー死にたいと思う!」
ツァラトゥストラが「この老いた深い真夜中は、夢のなかで、彼女の嘆きを反芻しているのだ。いや、それ以上に彼女のよろこびを。」(「酔狂」)と言うように、「飽満」のメロディが解体していき、12の鐘が鳴り終わると、昔を懐かしむような「情熱」が「人間」の調性であるロ長調でヴァイオリンにより奏でられる。次いで「あこがれ」「飽満」また「情熱」が繰り返され、美しいロ長調のメロディが途切れると、代わりに響くのはハ長調(自然)の「自然」の動機(チェロ、コントラバス)である。ロ長調ハ長調は交互に奏でられ、最後にハ長調、「自然」のチェロとコントラバスのピッチカートが残り、曲が終わる。
「人間」と「自然」は相いれることなく幕を閉じてしまうのである。
この「相いれなさ」はどう解釈したらよいのだろう。「自然」の勝利、と説く指揮者もいる。「超人」となったツァラトゥストラは人間に戻ることはなく、「自然」の位置から寂しく「人間」を眺めると言う解説書もある。結局のところ、正解は各々の聴衆の心の中、と言うべきなのだろう。
一人の聴衆としてわたしは、ツァラトゥストラ(というよりも、ツァラトゥストラを解釈したリヒャルト・シュトラウス)は、「超人」や「自然」に相いれることの出来ない「人間」を同情の心を持って愛したのではないかと思う。(「同情」はツァラトゥストラが嫌ったもの、かつ最後まで捨てられなかったものであり、彼は一番最後にこれを自覚、捨て去ることで超人となる)
ヴァイオリンによって奏でられるロ長調の「情熱」はあまりにも美しい。もう終わってしまった「生」の全てを懐かしむように、慈しむように、低い音で、一音一音進んで行く。これが、ツァラトゥストラのように「人間」を嫌った者が作った音楽とは到底思えないのである。
リヒャルト・シュトラウスは人間、それも一般の名もない人間を愛した人であった。自らの家庭生活という小さい題材で交響詩を作ったことや、英雄を否定した「ドン・キホーテ」を題材として曲を作ったこと。多くのオペラの題材が卑小な、人間の笑いであったこと。その他、彼の曲から考えあわせてみても、彼は間違いなく名もない人間を愛していた。
ツァラトゥストラは「人間」を脱して「自然」すなわち「超人」へと為ったのだろう。しかしリヒャルト・シュトラウスは、最後の最後に同情を捨てきれなかった「人間」として、ニーチェの著作に十分の敬意を払いつつ、自らの卑小さに甘んじたのではないか、わたしは「ツァラトゥストラはかく語りき」を聴きながらそう考えてみるのである。