きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

「よく分からない」ということ

今、苅谷剛彦氏の『知的複眼思考法』を読んでいます。
いかに「常識」「ステレオタイプ」に惑わされない思考をするか、その具体的な方法を論じたもの。
まだ読んでいる最中だけど、個人的に響いた一節があったから、ブログを書いてみました。その一節は以下。


「勉強不足症候群」とでも呼べるケースです。議論をしていてわからないことがあると、「よく勉強していないのでわかりません」と弁解する学生がいます。自分でわからないことにぶつかると、勉強不足・知識不足だと感じてしまうのです。


わたしは強烈な「勉強不足症候群」です。
研究の場でも、人間関係の諍いでも、何か困ったことがあると、「勉強不足だ」と感じます。
研究発表が上手くいかなかった時、自分の信じる行いが他人をひどく傷つけた時、自分の力が周囲に認められない時。
もっと勉強すれば、もっと賢くなれば、もっと色々なことを知っていれば、現状を打破出来るのではないか。
柳田國男の『青年と学問』にある大好きな一節は、学び続けさえすれば救われる、という希望でもありました。


諸君これより世に出られたならば、人の難苦といい煩悶というものの大部分が、本来知るべかりしことを未だ知らず、また教うべくして教えざる人のあった結果であることを、また着々として実験せられるであろう。


ですが苅谷氏は、この「勉強不足症候群」を突き詰めた結果にあるのは、一つの解決策を崇める原理主義であると注意を促します。
「勉強不足だから分からない」は「勉強したから大丈夫」という自己満足にも、「勉強してない奴は分かってない」にも繋がる。
その根底にあるのは「分かり得る正解」がある、と信じること。
だけど、実は正解なんてどこにもなくて、完璧に「分かる」ことも一生できない。
その前提に立って、考えていかなければいけないのだろうなぁ、と思うのです。


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今日、蒼井優さんの出演している「スポケーンの左手」という演劇を見てきました。この感想はまた別に書きたい。
演劇をまともに見たのは初めてで、面白い点は沢山あったのだけど、特に今回見た「スポケーンの左手」の登場人物は意味不明な人たちばかりで、例えば蒼井優さん演じるマリリンは、生死の瀬戸際にあって差別用語問題を論じていました。
「今気にすべきはそれじゃないでしょ!」っていう。
常識的にありえない、と思う行動を、ふと取ってしまう、って誰しもあると思うんですね。その人なりのこだわりだったりが、生死の瀬戸際でもふっと出てきてしまう。
役者は劇中の「人」ではないから、本質的にその「こだわり」を理解することは出来ないと思うんです。
でも、何かしら飲みこんで演技として表現する。
結局、「よく分からない」ことって世の中に溢れてて、というより世の中のほぼ全て、完璧に「分かる」ことは出来なくて、
でも、自分の中に飲みこんで、自分の中にあるもので、形にしていく。
それは演技も、生きていくということそれ自体も一緒なのかもしれません。


「よく分からない」と思った時に、「勉強不足」に逃げない。今持っているもので考えて形にしてみる、ということ。