きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

形にすることしないこと

安福望さんの『食器と食パンとペン』を読んでいたんですね。
選りすぐりの短歌に、素敵なイラストを付けた、とてもきれいな本です。
その中に、
「明日には複製にされてしまうからどうしようもなく今日が愛しい」という、石井僚一さんの歌があって、あぁいいなぁと思ったんです。
男の子が椅子に座って鳩をきゅっと抱き締めている、その横には鳩の絵を収めた沢山の額縁がずらりと並ぶ、そんなイラストが描かれています。
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もう、至極当たり前なんですけど、今この瞬間の感情って、もう二度と帰ってこないんですね。
これからの未来、たくさん科学が発達して、思ったことしたこと感じたことを、すべて記録できたとして、「その場にいる」ことが出来ない以上、もうその感情は二度と得られないわけです。
わたしは、こうやってブログを書いたり、写真を撮ったりすることを、「今を残す」ために行っているきらいがあります。
でも、それらを振り返って読んだり見たりしても、「その時」の感情が蘇るということはありません。
よくて、「その時」っぽい思いに浸れるくらい。
それでも、わたしたちは「今この瞬間」を残したくて、残したくて、書いたり描いたり撮ったりするのだと思います。
安福さんのイラストに、沢山の額縁があったように。
「複製」だって分かっていてなお、残そうとする。
いろいろな感情の中から、これと思うものを選別して(残りは捨てて)形にする、それが精一杯の「今」の残し方なのだと思うのです。


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先日、是枝監督の「ワンダフルライフ」を見ました。
死んだ人たちが決めた自らの一番の思い出を、映画として再現する人たちの話。
その中の一人が言うんですね、
「俺たちのしてることって何の意味があるんだろう」
って。
その世界はすごく発達してて、死んだ人の一生を記録したビデオテープが残っているんです。
ある人は一生分のビデオを見ながら、一番の思い出を決めた人もいました。
そんな世界なのに、映画に使うのは、ハリボテの飛行機や、綿でつくった雲、みんな作りもの。
出演者はその場にいる人で賄う人手不足ぶり。
けど、死んだ人たちは、その作りものの一番の思い出に満足して、「あの世」へ旅立っていくんです。
なんだろうな、記録と作品だったら、確実に作品が、「その時」っぽさを醸し出すんだろうな。
などと思ったりしました。


まとまらないけど以上。