きょうも一日が終わる

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アクティブ・ラーニングの矛盾

流行り言葉ですね、アクティブ・ラーニング。
主体的で体験的で問題解決を行う学習方法。
そこで培える力は主体的に課題を見つけ、それを協同して解決する力、まさにこれからの世界に必要な能力であると言われています。


昨年から教育の勉強を始め、すぐ目にし耳にするようになった「アクティブ・ラーニング」という言葉に私は一貫して微妙な矛盾を感じています。
もちろん育まれるだろうとされる上記の能力は本当にこれからに必要な力であると思います。
そしてその能力はその持ち主を幸せにするものだとも思います。
ですが、公的な学校教育において行う「アクティブ・ラーニング」は本当に「アクティブ」なものなのでしょうか?
子どもに「主体的でありましょう」と教師が、政府が、親が言ってしまった時点で、そこには主体性のカケラも残らないのではないのでしょうか?


現在の教育では(実情の差はあれど)知識を詰め込むことが良しとされています。
これはこれで問題ではあるのですが、ここには子どもが主体的に学習から逃避する余地があります。
授業を聞いているふり、問題を解くふり、いっそ授業中は寝てしまう、密かにノートに描く落書き、、、
大学生は講義をサボることを、それは嬉しそうに語り合います。「今日も授業切っちゃったよー」、と。
なぜ彼らは嬉しそうにサボリを語るのか、それはサボるという行為が完全に主体的なものだからです。
そんな大学生も試験前には勉強を始めます。
その善し悪しは置いておいても、好きな時に勉強し、気が向かない時は逃避する、現状の教育制度はそれを可能にしています。


翻ってアクティブ・ラーニングはどうでしょうか。
そこで求められるのは「主体的に学ぶこと」
評価されるのも主体性。
そこでは「主体的な逃避」が保証されません。
全くやる気になれないのに主体的であることを求められる。
この状態にある子どもはどうなるのでしょうか?
本音と建て前を上手く使い分けられるようになるのか、自らの感情を殺すことを覚えるのか。
なんにせよ、政府や教師が望む「主体的に問題解決をする能力」とはかけ離れたものではないのか、と思います。


主体性は主体的に「やること」と主体的に「やらないこと」の組み合わせです。
だから、主体性を育むのに必要なのは「主体的たれ」と指示することではなく、「やる自由」と「やらない自由」を保証することです。
教育の世界には「やるべきこと」が溢れているけれど、「やらなくていいこと」「やらなくていい時間」があまりにも少ないように感じています。