きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

ルールってなんやねん

今日の授業で、日本の学級は主に4パターンに分けられるという話を聞きました。
キーワードはルールとリレーション。


はじめに満足型。
ルールもリレーションも◯
ルールが徹底されているため他者に権利を侵害されることもなく、リレーションも盤石で先生や仲間からの承認欲求も満たされている状態。
このような学級ならば生徒の自治が可能。


つぎに管理型。
ルールは◯だがリレーションが×
ルールが徹底されているため他者に権利を侵害されることはないが、リレーションが希薄なため承認欲求が満たされることがない。
大人しく統制が取れるが、なんとなく停滞した空気が流れがちな学級。


三つめに馴れ合い型。
リレーションは◯だがルールは×
先生と生徒および生徒間の交流が豊かで承認欲求が満たされやすいが、ルールが徹底されていないため他者に権利を侵害されやすい。
一見仲が良さそうだが、なんとなくザワザワしていて落ち着きがない学級。


最後に崩壊型。
ルールもリレーションも×
ルールが徹底されず、承認欲求も満たされない。
学級崩壊の一歩手前。


ここで問題になるのが「管理型」と「なれあい型」の二つです。
この二つのタイプ、担任の影響が色濃い場合が多い。
なので教師としては、少し大人しかったりザワザワしていても見慣れた光景だと思ってしまうのだそう。
その結果、学級崩壊の芽を見過ごしてしまうのです。


この「担任の影響が色濃い」は本当だな、と実感を持って思います。
私は完全に「なれあい型」に寄ってしまうタイプ。
なぜなら押し付けのルールに非常に懐疑的だからです。
ルールには人の心を抑圧する作用がある。それがどんなに正しいルールだとしても。
それを無作法に振り回したくない、という思いが「なれあい型」を形成している、そう思います。
ルールを徹底しないせいで、権利を侵害されている子どももいます。


じゃあ、どうしたら良いのか?
ルールを鋭い口調で徹底すれば良いのか?
……それは違う、という思いが私にある限りそのルールは作用しないでしょう。
それならば、どうすべきなのか。


そもそもルールとは何のためにあるのでしょうか。
それは冒頭から繰り返しているように「他人に権利を侵害されないため」
それ以上でも以下でもない。
「バカ」と言われて喜びを感じる人しかいない集団ならば、「他人にバカと言ってはいけない」というルールは存在しないんです。
絶対的なルールなど存在しない。
ルールの本質が「他人に権利を侵害されないためにあるもの」だとしたら、やはりルールは所属する構成員によって作られるべき。
学級ならば子どもたち自身によって。
きっと、それが理想的な状態。


でも、すべてのルールが子どもたち自身によって作られることは、やっぱり少し非現実的です。
先生がルールを押し付けなければならない場合は、ルールの意味を、価値をきちんと説明することが大事。
そもそもルールとは何なのか、何のためのルールなのか。


そうやって本質を噛み砕いて考えて、はじめて自分が受け入れない行為を納得し、行えるようになるのだと思います。