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きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

何のためのラベリング

わたし、◯◯女子とか◯◯ガールという呼称が肌に合わなくて、何故かなぁと時々考えていたんです。
リケ女とか、森ガールとか、イクメンとか、自分がそのように呼ばれることも、他の人がそのように称されることも、あまり心地よいものではありません。何が引っ掛かるのだろう、と常々思っていました。
今日ふと思いついたことがあったのでその記録。


以前のブログで、対象に名前をつけることは、未知を既知にして不安を和らげる効果を持つのだと書いたことがあります。
例えば友人同士の「キャラ付け」
子どもにとって同年齢の友人は友人である以前に他者です。
どんな人間かも分からないし、自分を傷つける存在かもしれない。未知は恐怖です。
その際に「あなたはこういうタイプの人ね」と「キャラ付け」つまりラベリングすることは、見知らぬ他者を、自分の枠内に置くことを可能にします。
他者をラベリングして自分の枠に入れること。
もしくは自らにラベリングをして他者に受け入れてもらうこと。
これは人間の知恵のひとつなのかもしれません。


その他にも、昔の日本においては異性に名前を明かすことが結婚を意味している、とか。
支配した土地に新たな名前をつける、とか。
名前をつける、ラベリングをするという行為は他者を自分の枠に入れて、その中で他者と接することへ繋がるわけです。


◯◯女子、◯◯ガールなどといった呼称は、そのキャッチーさ故にメディアが作った言葉です。
それは他者を恐れて付けられた呼称ではありません。
そしてその気軽さ故に、多くの人が気軽にメディアを真似していく。
名付け、ラベリングは他者を自分の枠に入れること。それは他者の他者たる所以を無視することです。
もちろん他者の他者たる所以、すなわち未知であることを正面から見つめることは不可能。他者のことが全て分かってしまったら、それは他者ではなくなってしまうから。
だからこそラベリングがあるのです。
でも、他者の他者たる所以を無視する行為であることを忘れた、キャッチーなラベリングはどこか上滑りで不自然です。
リケ女と呼び、イクメンと呼ぶことで、私たちは何かわかったような気になってしまう。
わたしはそこに奇妙さと、不快さを感じていたのだなぁ、と思います。