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きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

「どうやって書いたらいいか分からない」

社会の授業、残り5分。
教室の子どもたちは今日の授業の振り返りを書いている。
お題は「今日の授業で分かったこと・思ったこと」
5行は書きなさい、というのが担任の先生の指示。
私はいつものように机のまわりをフラフラと歩きまわっては、「いいこと気付いたねぇ」「ああ、これ確かに面白かったね」と子どもたちの振り返りにコメントをしていく。時々誤字脱字を指摘するほかは、良い点をほめることや子どもの気持ちに共感の一言を入れるだけだ。
そんな中、少し気にかかっていたA君のノートを覗きこむと、何度も書いては消されたであろう鉛筆の跡がある。
その子のことが気にかかっていたのは、彼が文章を書くのが苦手だと知っていたから。
うまく文章を書いたり長い言葉で話すことが苦手なA君。
作文や感想文はもちろん、算数でも文章題に躓いていた。
ついこの間も「何を書いたらいいのか分からない」と泣き出したのを見たばかり。
担任の先生に怒られる前に、何か手を打てたら良いなぁと思っていた。


座っているA君の目線に合わせて、「何を書けばいいか分からないの?」と聞いた。
A君は無反応。定規を手でいじっている。
「何を書けばいいか分からないの?」
「……」
「それとも今はまだ書きたくない?」
「……」
このままだんまりを続けていたらまた担任の先生に怒られるぞ、と少し苛立つ。
「A君、どちらかを選んでね。もし何を書けばいいか分からないんだったら先生と一緒に考えよう。そうじゃなくて、まだ書きたくないなぁと思うなら無理に話しかけたりしないよ」
A君は小さな声で「分からない」と一言。
「じゃあ先生と一緒に考えようか。」
「みんなの買い物の発表(授業内容)を聞いてA君はどう思ったの?」
「僕はじばいき(自動販売機のこと。A君は自販機で飲み物を買うらしい)」
「授業で分かったこと・思ったこと」というお題からは少し的外れなものの、まぁいいかな、と思いつつ言葉を返す私。
「じゃあそのこと書いてみようか。どうしてA君は自動販売機で飲み物を買うの?」
「たくさんあるし、駅にもあるし、エレベーター降りてすぐだし」
「じゃあそれを書いてみよう」
それから5分ほど問答を続け、「自動はんばいき」の書き方を教え、文章のてにをはを教えた。


やっぱり文章は少しおかしいし、担任の先生が指定した分量には満たないけれど、一文を書き終えたA君。
「まだ1行足りないけどまだ書く?」
「後でやる」
の会話をもってA君は社会のノートを閉じた。




今日一日の目標にしていたのは「行為の裏の欲求を見ること」
「何を書けばいいか分からないの?」と聞かれて暫く沈黙をしたこと。
それでも小さく「分からない」と言ったこと。
「後でやる」なんてあからさまな「逃げ」をしたこと。
A君は「何を書けばいいのか分からない」と思いつつも、「何を書けばいいのか分からない」と認めるのも嫌で仕方ないのだろう。(当たり前だ)
それでいて「文章を書くことから早く解放されたい」とも思っている。
「たくさん書いている文章を違うと言われてうんざりだ」とも思っているかもしれない。
そんなA君に「何を書けばいいか分からないの?」という問いかけはものすごく鋭利な刃だったのかもしれない。
担任の先生に怒られないように、という思いがあったとはいえ、強引に書くことを引き出し、文章を「違う」「違う」と直していったことは、結局彼の自尊心を削っていったのではないか。


善意の蓑で覆われた刃を振りかざしていないか、は気にしなければならないことだなぁ。
それでも「これでいいの?」と何回も聞いたA君の「文章を書けるようになりたい」という欲求を、やはり意識していたい。
そしてその欲求をうまく刺激する方法を探っていきたい。