きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

「なんか変なかんじで…」

先週のできごと。
私が国語を教えている中学生の女の子はとても勉強が得意で、何を言わずとも黙々と文章を読み進めるのがいつもの流れ。
分からない所やこれだけは知っておいて!と思うところで口を挟むだけの授業。
彼女を見ていると、「学ぶ」ってこういうことだよなぁと思います。
自分の能力よりちょっとだけ難しい課題にひたすら取り組み、失敗し、また取り組む。
まさにトライアンドエラー
その学びの伴走者である私は、一緒に取り組んでみたり、「ここどう思う?」と思考の過程を視覚化するお手伝いをしたり、「私はこう考えたよ」と思考のモデルを示したりする。
自分の力で取り組める、取り組みたいと思う課題があるってやっぱり大事!


さて、彼女はひとつの問題を指して「ここがちょっと分からなくて」と声を掛けました。
それは説明文の抜書き問題。
はぁ、なるほどと思いつつ問題に目を通すと、確かにちょっと分かりずらい。
答えになりそうな箇所は一つしかないけれど、その箇所も微妙にしっくりこない。
「あんまり良くない問題」というものは確かに存在するのです。
消去法でいうならコレしかないけど、しっくりこない、と感じてしまう問題。
彼女にどう伝えようかなぁと考えつつ「〇〇さんはどう考えた?」と聞くと、やはりココしかない、と思いつつしっくり来ていなかったよう。
「うーん、なんか変なかんじで…」


この「しっくりこない感じ」ってけっこう大事だなぁと思います。
それだけしっかり文章を読めている、ということの証だと思うんです。
その感じが掴めていることを指摘しつつ、文章の作者と問題製作者が違うが故に問題製作者の「読み」が問題に混入してしまうことがあること、悪問も中にはあることを話すと、微妙な表情。
真面目な彼女は「悪問がある」ことが納得いかなかったようです。


きちんとした答えがあって欲しい心理って、子どもたちの中にものすごく根強い。
それは正解を求め続ける学校教育の結果でもあるし、子ども故の頑なさでもあると思います。
でも、私たちがこの先生きていく未来はどうしようもなく不正確で、不明瞭で、正解がなくても何かを作っていかなければいけない。
もう何度も言われていることだけれど、子どもから大人になる過程で「正解のない中で答えを出す」ことを学んでいく必要があるのかなぁと思います。
答えを作っては改良し、他者と話し合ってはまた答えを作っていく、そういう経験。


私は、国語と読書はその練習にぴったりだと思っています。
本は読者に読まれてはじめて完成するもの。
読まれる前はただの文字列です。
その文字列を使って何を作るかは読者の手に任されている。
もちろんおおよそ万人が共有しうる一つの読みを探る、という読み方もある。
けれど一つの文字列から多様な読みを引き出す、という読み方もあれば、文字列から思いついた新たな創作をする、という読みもある。
一つの素材から多くのことが出来るのが、本の良さですね。