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きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

「〇〇が言った時にもう気づいてたよ」

勉強も、スポーツも、例えば本が読めているか否かだって、他人がどこで躓いて、何が成長へのキーポイントなのか、それを知るのはとてつもなく難しい。
脳の中で何が起こっているのかは見えない。
知らない知識があるからかもしれない、知識は知っていても使い方を知らないのかもしれない、疲れや萎縮といった体の不調が脳の働きを遮っているのかもしれない。
それ知ってる?これはこう使うんだよ。いま疲れてる?
そうやっていくつもいくつも質問を重ねて、説明を加えていけば分かるのかもしれない。
でもそうやって言葉に頼っているうちに、子どもはどっぷりつかれてしまう。


Cさんは算数が苦手。
クラスの中でも理解が遅いほう。
そんな彼女にわたしはいつも過剰なほど質問や説明をしてしまう。
運動会前。ただでさえ疲れている彼女はぐったりして私の言葉もあまり耳に入らないようだった。


今日の算数のクラスでも子どもたちがホワイトボードを使いながら教え合うことを認めた授業をした。
「認めた」というのは教え合いが強制でない、ということ。
教え合いをしていいよ、と告げた際にこう言った。
「みんなの中にはだれかと話しながら問題を解いたほうが気持ちよく勉強できる人がいるよね。わたしは全員に気持ちよく問題が解けるようになってほしいと思っています。だからだれかと相談したりホワートボードを使ってもいいよ。でも、みんなの中には一人で集中して勉強したい人もいるよね。わたしは〝全員に〟気持ちよく勉強してほしい。だから声のボリュームは小さめに、他の人が嫌がることはしないように気を付けてほしいと思います。」
やっぱり授業中に話したり席を移動することができる、というのは子どもたちにとっては過刺激。
はじめはどうしても声が大きくなってしまうし、逆に過敏な子は「うるさい」とキツめの注意。
それでも「ちょっとボリューム大きいよ」「これくらいの声の大きさで」と言葉を掛け続けていると、そこそこしっとりとした空気になってくる。


そんな中、Cさんは疲れ気味だからか、(もしかしたら劣等感のためか)、話しながら問題を解いているグループには混じらず一人で問題を解いていた。
というよりもう問題を解く気力がない、といったかんじ。
私は教室内をぐるぐると回りながら、頻繁に声をかえて質問やら説明やらしていた。
「大丈夫?」「この問題、解説しておく?」「ここ、どうなると思う?」「お、いいとこまで行ってるねぇ。」


授業の途中、躓いている人が多いな、と感じて一問だけ一斉授業型で解説をした。
「この問題、まず何をする?」
と聞くとすでに解き終わっているDさんが
「△△を使う!」
と一言。「そうだね」と受けつつ解説をした。
一通り解説を終えて、「また各自問題を解いてね」と言うと、ホワイトボードを使いたい子どもたちは、今わたしが書いたばかりの解説をサッと消して次の問題を書き始めた。
それを見て「あ、やばい」と思うわたし。
というのも、気力疲れしたCさんがまだノートをうつしていたから。
どうしようもないので、「ごめん、消えちゃったね。さっきの解説で分かった?」と聞くと、
「大丈夫。ていうかDちゃんの『△△を使う』でもう答え分かったし」
とのこと。
わたし、「じゃあ解説の必要なかったじゃんー!」と拍子抜け。
(まぁ、他にも引っかかっていた人がいたのだけれど)


誰かの一言が閃きのヒントになることが、大いにある。
それなのに、長い解説長い説明、子どものことを思っての質問は気力を失わせるばかり。
「わたしに合った先生としての在り方」はずっと模索中、全然分からない。
けど、一方的に教える人にはなれないな。
そう思った一コマです。


その他補足。
教え合いは合う子どもにはものすごく合う。
今まで「わかんないー」と机に突っ伏していた子どもが、誰よりも早く問題を解いて喜々として他の人に教えていたりする。
かといって全員が〝話す〟ほうへ流れていかない。
一人でじっくり取り組める人も多い。
やっぱり課題は互いを尊重する環境づくり。
他の人が嫌がることをしないこと。
そして時間と最低限のラインの主導権を渡さないこと、かなぁ。
「好きなだけ、好きなようにしていいよ」だと場面を見ての方向転換ができない。
今は一斉授業をしたほうがいいな、とか。
さすがにうるさすぎるかも、とか。
ここまでは出来るようになってほしい、とか。
そういった微調整をできる権限をしっかり持っておくことは大事かもしれないなぁ。
そんなこんな、トライアンドエラーです。