きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

「ズルイ」

小学校にボランティアに行くようになって、耳についた言葉に
「ズルイ」
があります。
友達が何かすれば「ズルイ」
先生が何か言えば「ズルイ」
「ズルイ」の裏側にはどんな気持ちがあるのだろう。
ずっと気になっています。


例えば先日の一コマ。
音楽の時間。リコーダーの練習をする子どもたちは一人ひとつ譜面台を使います。
ですが、音楽室にある譜面台は子どもたちの数よりも2つ少ない。
そこで譜面台を手に入れられなかった子は、倉庫にある譜面台を使うことになっています。
この譜面台が「ズルイ」の原因。
その日も一人の子どもが「せんせーい、譜面台足りなくなった」と言いました。
「じゃあ倉庫から持って来なさい」
と先生が言うや否や、「ズルイ」の声が上がります。
「お前、先週も使っただろ」
「いいやつ(倉庫にある譜面台のこと)使いたいから最後まで待ってたんだろ」
非難の声、轟々。
その声に対して「そんなんじゃねーし、たまたまだし」と反論すれば、
「じゃあ、こっち(音楽室にある譜面台)でもいいんだね。これ、やるよ」
「はぁ!?お前がいいやつ使いたいだけじゃん」
と喧嘩へ繋がります。
ちなみに倉庫の譜面台、全然「いいやつ」じゃないです。
足の形がちょっとだけ違う、なんてことはない譜面台。


もう一例。防災訓練。
地震がおさまりました。クラスごとに校庭へ集まりなさい」
の放送が入ると、子どもたちは一斉に防災頭巾を被って廊下へ並びます。
先生の「しゃべらない、うるさい、ちゃんと並ぶ」の声が響く廊下。
そして校庭へ向かって歩き始めました。
私は列の後ろについていくことに。
ところが、一人の男の子が防災頭巾を被らず手に持ったまま歩いています。
その子は親や先生によく怒られている子。
反抗することにアイデンティティを見出しているタイプで、同級生が彼に注意すると「うるせぇ!」と威嚇で黙らせます。
昔は手が出ることも多かったのですが、最近はそれは減って来たようです。
今、彼がいる場所は行列の先頭にいる担任の先生からは見えない位置。
「担任の先生にばれなければ怒られないだろう」
「大人しく防災頭巾を被るのは癪だな」
そんな気持ちが見え隠れする行為です。
私は一応「本当の地震だったら頭を守るのは大事だよ」と告げますが、もちろんそんなことは分かった上での行為なのでしょう。
大人しく防災頭巾を被ることはありません。
防災訓練は非常時に速やかに体を動かせるように、体の動かし方(机の下に隠れる、校庭へ向けて焦らず歩く)を慣らすためのもの。
そういう場で「防災頭巾を被らないこと」を厳しく糾弾するのは良くないかなぁとの判断。
「本当の地震だったら被るんだよ」と言うだけに済ませました。
と、そこで側にいた別の男の子が「ズルイ」と一言。
「なんであいつだけ被らなくていいの?」
と強い口調です。
「あの子も防災頭巾被らないといけないことは分かっているみたいだよ」
と告げるものの納得しない面持ちでした。


ーーー
この二例、どちらも「ズルイ」と言われる程、優遇された状況ではありません。
かたやちょっと形の違う譜面台、かたや防災訓練中に防災頭巾を被らないだけのこと。
でも、子どもたちにとってこれは大問題なのです。
彼ら彼女らの「ズルイ」を聞くたびに、その裏にどんな気持ちがあるのだろうと耳をすましてきました。
最近感じるのは、「私は苦痛を感じている」という叫びです。
学校というのはどうしたって我慢の場になっています。
しゃべりたい時にしゃべれないこと、物を忘れれば怒られるという恐怖があること、自分のペースよりも集団のペースが大事にされること。


そうやって日々我慢をしている彼ら彼女らにとって、「普通と違うこと」は許せないことです。
何故なら彼ら彼女らこそが「みんな同じようにあれ」と大人に強制されているから。
算数の計算が遅い子は「小学〇年生で、それは遅すぎるよ」と言われ、
何事もワンテンポ遅れてしまう子は「みんな待ってるよ」と発破をかけられ、
つい自分のことに熱中してしまう子は「周りのことを考えなさい」と叱られる。
そんなふうに毎日毎日「みんなと同じようにあれ」と言われ続けた子どもたちは、お互いに対しても「同じであること」を強制し合うようになるのだと思います。
彼らの「ズルイ」は、
「私が我慢している『みんなと同じであること』をお前は何故守らないのだ。そんなことは許せない」
ではないのか…今、そういうふうに考えています。


でも「同じであること」がベースの考え方は危険じゃないかなぁとも思うのです。
だって世の中は「同じでないこと」がスタンダートだから。
現代を生きる私たちは日々、「同じでないこと」を認める努力をしてきているはずです。
車いす用のスロープが駅に作られたってだれも「ズルイ」とは言いませんよね。
それは障がい者への差別と偏見をなくそうとしてきた今までの努力の結果です。
LGBTへの差別偏見も問題となりました。
同性同士の結婚もどんどんと認められつつあります。
「同じであること」が普通であった近代までから、「同じでないこと」が普通である未来へと、時代は確実に変わりつつあります。
そういう時代を生きていく子どもたちに必要なのは、「みんなと同じ」になれるように努力する力なのか?
私は違うと思います。
これからの時代に必要なのは「同じでないこと」を認めたうえで気持ちよく生きていく方法を探す力ではないのか。
障がい故の違いは認められるのに、「健常者」という枠の中の違いは認められない、それで良いのか、良くない。
じゃあ、小学校教育はどうしたら良いのだろう。