きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

この2年

この年末年始はたいして本が読めず、何故だか昔読んだ本ばかりパラパラと捲っていました。
なぜだろうね。もうすぐ人生に一区切りつくからだろうか。


2年前の4月、「今月の短歌」として俵さんの歌を手帳に書きました。
「旅人の目あるうちに見ておかん朝ごと変わる海の青あお」
石垣島に移住した俵さんが、移住したばかりの「旅人の目」をもって詠んだ歌。
今までとは違う場所に行くのだから、けれどその目新しさはすぐ消えてしまうのだから、「旅人の目」があるうちに見たことをきちんと記録しておこう、そんな気持ちでこの歌を眺めたことを思い出します。
でも、この2年間はずーっと旅人だったなぁと振り返ってみると感じます。
ホームがないままに色々なところに顔を出して。学んだことや日々のモヤモヤをどこへ向けて昇華させて良いのか分からずに。
どこをホームにしたいのか、ずっとフラフラ彷徨っていた2年のような気がします。


年末年始に再読した本の中で、グサッときたのは西村さんの『かかわり方のまなび方』
この本は読むたびに刺さる箇所が変わる、すごく良い本です。
本の中のファシリテーターについて書いている箇所で、自己一致の大切さに触れてありました。
場に居る人の学びや活動を促進しうるファシリテーターに必要なのは無条件の信頼、共感的理解、自己一致であると。
無条件の信頼(行為ではなく人そのものを信じること)や共感的理解ってよく聞くんです。
その度に最近はちょっとモヤモヤしていて、そのモヤモヤはなんだろうなぁと、時々考えていました。
そのモヤモヤ、「信頼できない自分」や「共感できない自分」を無視することから来てたんだなぁ、と、思いました。
自己一致が大切であるということは、「信頼できない自分」「共感できない自分」を認める必要があるということ。
その上でそんな自分に大幅なウソをつかない行動をするのがよいのだろうな、と思いました。


もうひとつ、このタイミングで再読してよかったなぁと思ったのは梨木香歩さんの『春になったら苺を摘みに』
自分の価値観、ものの考え方に近しいエッセイです。
その中に「それぞれの戦争」というエッセイがあります。
太平洋戦時下、アメリカの日本人強制収容所に居た人に梨木さんが偶然出会った話が主軸となって、梨木さんの戦争観が語られていく。
強制収容所にいたその方は、アメリカ生まれのアメリカ育ち。自らをアメリカ市民だと堅く信じていた時に、日本人の血が流れているからという理由で強制収容所へ。
命からがら日本へ帰ってからも、戦時下の日本のこと、大変な思いをされたらしい。
その方は梨木さんに、「戦後何十年も経ってアメリカの地に再び渡った時、自分にとっての戦争が終わった」と語り、梨木さんは「それぞれの戦争」について思いを馳せます。
そんなエッセイを読みながら、わたしもやはり「それぞれ」に着目したい人間なのだと、改めて感じていました。
テロで何百人が死んだ、〇〇町の女子高生が殺された、そんなニュースを聞く時に感じるプラスチック一枚隔てた感触が体に馴染まない。
「学校教育はこうあるべき」「理想的な先生とは」とつい語ってしまった後に感じる虚しさ。
大きなことを見たり話したりする時の現実感の無さ。
わたしはつくづく「目の前のその人」でないと上手く接していけないのだと思います。
わたしの「自己一致」はここからはじめないといけない。


とある場で、「先生が困難のある子どもに構いすぎたが故の学級崩壊」の話を聞きました。
よく聞く話だなぁと思いつつ、わたしもそうなるだろうな、と考察。
そうしたら別の人が「特別支援学校にいた人もそこに陥りがち」と一言。
それを聞いて、なんだろうなぁ引っかかるなぁと思いました。
なんだろう、個人を見ることが大事という文言と、教師はあくまで集団を見るものという考え。
個人にフォーカスしたいわたしの「自己一致」はこの矛盾の中でどのように在れるのか。
どのような力を持てば「自己一致」したうえで人と関われるのか。


旅人として2年間をやってきて、この年末年始に馴染みの本を読んだりなどしていると、もとの場所に戻ってきたなぁという感じがするのです。
教育について、文学について、読書について、共感について、多様性について、継承と創造について、常日頃なんとはなしに考えたり、本を読んだり、人と話したりして、結局のところ「自分の在りたい在り方」にもどっていくような感じ。
あと残り3ヶ月、どういうふうにこの2年の決着がつくのかつかないのか、やってみるしかないなぁ、といったところです。