きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

否定をしないところから

否定からは何も生まれない。
では全然納得のいかないことへは、どのように相対したらよいのだろう。


わたしはクラスでやる長縄が昔から大嫌い。
もともと運動が苦手だったこと、そしてプライドが人一倍大きかったこともあって、人に失敗した姿を見せ、かつ人に迷惑をかける可能性の大きい長縄は大の苦手だった。
今、大人となって、子どもたちの長縄記録会を見ていてもどことなく苦しさを感じてしまう。
「△△秒に〇〇回」の目標は、本当に子どもたちの目標なんだろうか?
先生の先生による先生のための目標ではないのだろうか?


行間休み。
休み時間返上で子どもたちと先生は長縄の練習をしていた。
週に1度その学校へ行くわたしは、今年もこの行事が始まってしまったと寒々しい思いを感じた。
担任の先生は普段から子どもたちを厳しく指導するひと。
長縄をとんでいる子どもたちへ向けて「〇〇!縄に入るのが遅い!」「はやく列をつめろ!」「〇〇~何やってんだよー!」と大声を飛ばしている。
わたしはその光景を見て、「わたしはどういうふうに振る舞えばいいだろう」と数秒ざざざっと考えをめぐらしていた。
「こんな行事なければいいのに」というのが心からの本心。
「でも、『こんなのおかしい!』ってボランティアであるわたしがいきなり発言するのは絶対ちがう」
「それに、ここでわたしが渋い顔をしても何も生まれない」と思う。
「でもでも、すでに先生の怒号に萎縮している子どもに発破をかけることもしたくない」と悩む。
子どもたちは互いにも厳しい言葉を投げつけ合っている。
「〇〇!ミスすんなよ!」「おいっフザけんなよ」「フザけてねーよ」
絶え間なく縄を跳びながらケンカもできるのは、それはそれでスゴイ。
結局わたしは、ミスした時は「ドンマイ!」と声をかけ、ギリギリのところで跳べた時には「ナイス!」と声を張り上げ、転んだ時には「だいじょぶかー」と言い、とにかく「子どもたちの心がちょっとでもあったかくなりそうな言葉」を投げかけ続けてた。
本当にこの行動がベストだったのか、よくわからない。
でも、厳しく注意を飛ばしていた先生がその日はじめて「ドンマイ」と声をかけた時、
縄を回していた子どもが「大丈夫、大丈夫ドンドンいこう」と言った時、
わたしの心はふわっと少し楽になった。
もしかしたら、わたしの言動は誰かにちょっとだけプラスの影響を与えられたかもしれない。



子どもたちは目標回数まであと少しの所まで跳んだ。
でもあまり嬉しくも悲しくもなさそう。
やっぱり子どもたちにとっての長縄記録回って強制されているものなんだろうなぁと思う。
わたしの言動はさらに子どもたちを追い詰めただろうか。
よくわからない。
あの場のあの時間、あのタイミングでのわたしのベストの行動は何だったのか、やっぱりどう考えてもわからない。