きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

考えたように生きて

和田彩花さんがアンジュルムを卒業する。
4年間くらい姿を追っていたひと。最近は歌う姿を見ることはなくなっていたけれど。
和田彩花さんは、考えたように生きるひとだと思う。
こう在りたいと、確固たる姿を目指して。これは違う、もっとこうなんだともがきながら。
それは見るからに苦しそうで、でも凛とした和田彩花さんに、わたしはとても憧れている。卒業を発表した今も。
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和田彩花さんはずっとアンジュルムをやるのだと思っていた。
25歳を過ぎても、30歳になっても。それが彼女の生き様なのだと勝手に想像していた。
その彼女が卒業するという。
勝手に彼女の未来を想像していた私たちを突き放すように、和田彩花は、次へゆく。
もちろん、そこには様々な事情もあるのだと思う。きれいな事情と理由ばかりではないのだと思う。
けれど、その全てを抱きしめて、次へゆくのだ。
だれかが我が身を呈した最終奥義のようだと言っていた。
彼女はどんな時も美しい。彼女自身が否定した、25歳での卒業といえども。
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和田彩花さんは考えたように生きるひとだ。
ひとはうっかりすると生きたように考える。
自分の人生を肯定するように考え、そして生きてゆく。
それ はひとつのすてきな生き方で、人間らしさであり、愛情であるのだと思う。
けれど、けれどそれでも、わたしは和田彩花さんの、自らが美しいと思うように生きる生き様に、心底惚れている。
自分が美しいと感じたものを、心の底から信じるその姿。
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敬愛するとあるひとが人の価値について考察していた。
曰く、ひとの価値を、ひととひととの関係性に見る。
障害も、ひととひととの関係性の中にある。コミュニケーションが取れないのは自閉症のせいではなくて、彼とわたしのコミュニケーションの方法が違うから。
そんなふうに、ひとの価値も、関係性のなかに。
ある種納得する面と、多少の引っ掛かりを感じる面とを思っていた。
それは、まだ価値とは思われぬ価値。
わたしという個人が、価値としてひとりで温めているものが、あっても良いだろうと思うから。
和田彩花が価値と思い、美しいと思ったものは、これから表出するのだろうと思うから。
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自分の生きた道筋に意味を見出してゆく営みと、自分の考えを生き様として表出してゆく営みと。
どちらが上と下と、順位することはできないけれど、後者の純粋さを、今は尊びたい。
和田彩花さんのことを思いつつ、自分の生き様を思いつつ。
わたしの考えでは、「自分の考え」とは、自らの経験に、自分が摂取してきた先人の生き様を組み入れることだ。
見も知らぬ先人の生き様、音楽や絵画など数多の作品群、大量に残された筆記。
自らの経験に無いものを、美しいと感じ、自らに取り入れたもの。
自分では未だ体感し得ない、けれど価値あると感じる様々。
それは妄想かもしれなくて、幻覚であるかもしれないけれど、そこへ向かってゆく生き方を。どうか。
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自分が思っていた以上にショッキングだった和田彩花さんの卒業と、今だからこそ見える景色に際して。
今年の目標をようやく「表現」に決めました。
昨年は「ひとと話す」その前は「着実」だったな。
似たようで、全く違う一年がやってくる。
和田彩花さんに、会いに行かねばと思う。

もうちょっと頑張ってみようかな、と思えるとき

身近なひとが聞いてくれようとした時。
共感してくれなくてもいい。気にかけてくれたというのが大事。身近な人というのも大事。遠くのひとの共感も時には救いになるけれど。
自分の価値観が気持ちよく転換しそうな時。
自分の考えが絶対だと思っていると努力しようがなくて袋小路。


例えばこのブログをこのタイミングで読めたことは幸せなのだなぁと思う。


http://nao-taka.hatenablog.com/entry/2017/07/12/225653

この4カ月で感じたことのひとつは、(もうずっと知っていたけれど)一人一人に関わることの不可能さとどん詰まり感。
もちろんケースバイケースだけれど、一人をじっくり見たときの閉塞感。
集団がなんとなく解決してくれることの多さ。


まだ学ぶことがある、と思えた1日の記録。

20170707

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私は焼き芋ができるのをひたすら待っていたのだが、ほんとうに待っているものは焼き芋ではないという感じがしていた。区切りを待っていたのだ。先を急いでいたのだ。もっと見たい、どうなるの、火はどうやっておさまるの。また暗くなったら急に木々の音が聞こえだすの?
「なにもないところから、火を起こして、それが燃えさかり、消えていくだろう。そして炭や灰になる。なににおきかえてもみんな同じ過程だ。その全部をなるべくねばれ。先を見たい気持ちでのめるな。ねばって一歩でも遅くためていくんだ。」
おじいちゃんは言った。
よしもとばなな『スウィート・ヒアアフター


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あっという間の7月。
何もかもが色褪せて見える日々の中で、毎日プランターの植物が大きくなること、緑の匂いと色がいつもそばにあること、音楽はいつも美しく響くことが生きる糧になっている。
おかしな話だと思う。人はいつも優しいし、その優しさに気づいているのに感謝できない。
子どもは毎日新たな気づきを得ているのに、そのことを喜べない。
そんな日々なのに自然のことはいつも新鮮だし嬉しい。


笹井宏之さんの短歌に、
野菜売るおばさんが「意味いらんかねぇ、いらんよねぇ」と畑へ帰る
っていうのがあったなぁ。
意味を捨てて生活がしたい。仕事がしたい。
はたらく意味、生きる意味、意味の蟻地獄に嵌まっているからこんなに苦しいんではないかしらね。

20170625

食パンの耳をまんべんなくかじる 祈りとはそういうものだろう
笹井宏之


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p131
宛先のない祈り、それを「だれか」の代わりに引き取る場所として、たとえばお宮やお社が護られてきたのだろう。
p133
写真家が、なにかある主題を浮かび上がらせるという観念性を脱落させて、見えるものと撮られたものとの際をかぎりなくゼロに近づけようとして、仕事をしばしば「カメラにまかせる」ように、終わりなき「祈り」のなかで、ひとはおそらく「祈り」そのものを何かにまかせる。たとえば、身体に。心がお留守になって散らばるのを防ぐために、宗教礼拝では、何事も、たとえば祈りの文句や数珠の持ち方なども、型どおりにおこなうよう定められている。
鷲田清一『「待つ」ということ』


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祈ること、願うことってどういうことだろう?
ひとは自分のしたいようにしか出来ない生き物だと思ってる。だから押し付けや強制は学びには繋がらないと思ってる。むしろ強制された事物を嫌いになるんじゃないのかなぁって思ってる。
でも、「こうなってほしい」という願いのないところは無味乾燥なんだろうなぁ。
自分の力で学べるようになってほしい、も、自由をうまく使えるようになってほしい、も願いだし、行き過ぎれば価値観の押し付けだ。
願いと強制が繋がらないところに祈りがあるのかな。そんなことを考えた1日。


ようやく頭で考える余裕がでてきた。
でも直感的に動いていた頃に悩まなかったことに苦しんだりしてる。
ジョブズの言葉を反芻する。今日で命が潰えるとしたら今日の予定を行うだろうか?
今は、うまく頷けない。