きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

10月30日

朝も夜もかぼちゃスープを食べる。まだまだなくならない。
昼に食べた鯖の味噌煮美味しかったな。自分で作られるかな。
うまく文句が言えない、みたいなことがある。〇〇さんのやり方は良くないかなと思うけど、〇〇さんがそうする理由と事情も分からんでもないよね。〇〇さんが苦労してる△△さんの事情も慮りたいけど、〇〇さんの苦労や疲れだって深刻な問題だよね。みたいな。
文句に対する「まぁまぁでもさ、」がすぐ自分の中から出てくる、みたいな。
自分の中で堂々巡りしていても解決することはないので何かしらの行動を取ることにはなるけど、その曖昧さがやや気持ち悪い。
土曜日の靴擦れがまだ痛い。いつになったら治るのか。

10月29日

朝ごはんに煮卵を食べた。最近発見したけど、これはかなり美味しい。
夜ごはんはかぼちゃスープとフライドポテト。
自己責任論を語れるひとはそれだけで勝者で、でも勝者であることを自覚してないからこそ語れると思うので、やっぱりちょっとばかしいけすかない。
でもいくら勝者だといっても、そのひとの生活のなかにある努力や忍耐や喜びはけっして否定できない。
そんなことを思いつつひさしぶりに『富士日記』を読み、読んだから日記を書いた。これはそういう本です。

考えたように生きて

和田彩花さんがアンジュルムを卒業する。
4年間くらい姿を追っていたひと。最近は歌う姿を見ることはなくなっていたけれど。
和田彩花さんは、考えたように生きるひとだと思う。
こう在りたいと、確固たる姿を目指して。これは違う、もっとこうなんだともがきながら。
それは見るからに苦しそうで、でも凛とした和田彩花さんに、わたしはとても憧れている。卒業を発表した今も。
ーーー
和田彩花さんはずっとアンジュルムをやるのだと思っていた。
25歳を過ぎても、30歳になっても。それが彼女の生き様なのだと勝手に想像していた。
その彼女が卒業するという。
勝手に彼女の未来を想像していた私たちを突き放すように、和田彩花は、次へゆく。
もちろん、そこには様々な事情もあるのだと思う。きれいな事情と理由ばかりではないのだと思う。
けれど、その全てを抱きしめて、次へゆくのだ。
だれかが我が身を呈した最終奥義のようだと言っていた。
彼女はどんな時も美しい。彼女自身が否定した、25歳での卒業といえども。
ーーー


和田彩花さんは考えたように生きるひとだ。
ひとはうっかりすると生きたように考える。
自分の人生を肯定するように考え、そして生きてゆく。
それ はひとつのすてきな生き方で、人間らしさであり、愛情であるのだと思う。
けれど、けれどそれでも、わたしは和田彩花さんの、自らが美しいと思うように生きる生き様に、心底惚れている。
自分が美しいと感じたものを、心の底から信じるその姿。
ーーー
敬愛するとあるひとが人の価値について考察していた。
曰く、ひとの価値を、ひととひととの関係性に見る。
障害も、ひととひととの関係性の中にある。コミュニケーションが取れないのは自閉症のせいではなくて、彼とわたしのコミュニケーションの方法が違うから。
そんなふうに、ひとの価値も、関係性のなかに。
ある種納得する面と、多少の引っ掛かりを感じる面とを思っていた。
それは、まだ価値とは思われぬ価値。
わたしという個人が、価値としてひとりで温めているものが、あっても良いだろうと思うから。
和田彩花が価値と思い、美しいと思ったものは、これから表出するのだろうと思うから。
ーーー
自分の生きた道筋に意味を見出してゆく営みと、自分の考えを生き様として表出してゆく営みと。
どちらが上と下と、順位することはできないけれど、後者の純粋さを、今は尊びたい。
和田彩花さんのことを思いつつ、自分の生き様を思いつつ。
わたしの考えでは、「自分の考え」とは、自らの経験に、自分が摂取してきた先人の生き様を組み入れることだ。
見も知らぬ先人の生き様、音楽や絵画など数多の作品群、大量に残された筆記。
自らの経験に無いものを、美しいと感じ、自らに取り入れたもの。
自分では未だ体感し得ない、けれど価値あると感じる様々。
それは妄想かもしれなくて、幻覚であるかもしれないけれど、そこへ向かってゆく生き方を。どうか。
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自分が思っていた以上にショッキングだった和田彩花さんの卒業と、今だからこそ見える景色に際して。
今年の目標をようやく「表現」に決めました。
昨年は「ひとと話す」その前は「着実」だったな。
似たようで、全く違う一年がやってくる。
和田彩花さんに、会いに行かねばと思う。

もうちょっと頑張ってみようかな、と思えるとき

身近なひとが聞いてくれようとした時。
共感してくれなくてもいい。気にかけてくれたというのが大事。身近な人というのも大事。遠くのひとの共感も時には救いになるけれど。
自分の価値観が気持ちよく転換しそうな時。
自分の考えが絶対だと思っていると努力しようがなくて袋小路。


例えばこのブログをこのタイミングで読めたことは幸せなのだなぁと思う。


http://nao-taka.hatenablog.com/entry/2017/07/12/225653

この4カ月で感じたことのひとつは、(もうずっと知っていたけれど)一人一人に関わることの不可能さとどん詰まり感。
もちろんケースバイケースだけれど、一人をじっくり見たときの閉塞感。
集団がなんとなく解決してくれることの多さ。


まだ学ぶことがある、と思えた1日の記録。