きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

大海は知らずとも、空の青をしりたい

文章が書けなくなっている、実際に書いてみて強く感じています。
文章、特に人に見せようと思って書く文章。
細かな言葉遣いや、単語の選択、自分のためだけに書く時はたいして気にしていないひとつひとつが、やけに気になってしまいます。
読み返して何か違うな、もう一度読んでやっぱ何か違うな、その繰り返し。


中学からやっていたブログは、書き殴りのような拙いものでしたが、文章表現に困る、ということはあまりなかった気がします。
いつも使っていた文章の略し方、平仮名の使い方、顔文字まで、長い間やっていたということもあって、そこには自分なりの法則が確かにありました。
継続が作ったわたしの世界が、ブログの中にあったのであろうと思います。


わたしが中学、高校生だった頃、クラスの何人かはブログをやっていました。
その日学校であったこと、部活のこと、誰に聞かせるのだか分からない愚痴、好きな音楽。
みんな、自分なりの毎日をブログに記していて、わたしはそのいくつもをブックマークして見ていました。
わたしがブログを始めた理由も、友達や先輩のものを見ていて、いいなぁと思ったから。
ブログはその人の世界であって、ブログデザインや画像や文章、使えるものを全て使って表現した、その人だけの世界はとても魅力的なものでした。
好きな服を着て自らの個性を示すように、ブログはその人自身、といって良いくらいの価値が、わたしにとってありました。


けれど、mixiTwitterFacebook、と次々に登場するSNSの波に飲み込まれて、今、わたしの周りでブログをやっている人は、ほとんどいません。
実際、わたしも高校卒業を機に、4年間続けていたブログの投稿をやめて、Twitterに登録しました。
以前はブログもmixiもやらず、ネットで何か言うことはなかった友人の多くも、Twitterをはじめました。
また一人、ネットでの表現に関わってこなかった友人がTwitterに登録するたびに、小さなカルチャーショックを感じていたのも、もう遠い昔のことのようです。
Twitterで本名を晒して、お腹すいた、とか寝不足で辛い、などと呟きながら、同じような呟きが溢れるタイムラインを眺めている毎日です。


Twitterは、Facebookは、とても面白いと思います。
以前では考えられなかった程多くの人が、ネットの海に私生活を晒している。
みんなの生活を手に取るように知ることが出来る。
けれど、永遠と続くタイムラインをさらさら流していると、どれもこれも、同じ人が呟いているような気がして、時折とてもつまらなく感じます。
TwitterFacebookでは、フォローしている全員の呟きが等質に流れてきます。
面白い呟きも、ただの叫びのような呟きも、好きな人の呟きも嫌いな人の呟きも全て。
かつてのブログに存在していた、その人なりの文章、文体、表現。その人なりの世界が、SNSには存在しません。
皆、画一的なデザインの中で、同じようなことを同じように言う。
そりゃあ、みんなただの一般人。わたしも一般人。
人と違うことが言える人なんて少数で、表現だってそんなに変わってくるわけはない。
でも、呟いている一人一人は、確かに別な人で、別な考えを持っている。
それが、SNSには表れてこない、そう感じます。


わたしは今、SNSってつまらんなぁ、と感じています。
それは何故なのかと考えた時に、言葉をSNSにむけて投げかけても、SNSの海の中のプランクトンのひとつにしかならないからかなぁ、と思いました。
わたしがタイムラインを高速でスクロールするように、みんなタイムラインを眺めているのでしょう。
読む、のではなく、眺めているのだと思います。
その海の中で、誰かと話したりすることは楽しいけれど、言葉を発すること自体はあまり楽しく感じられません。
自分と他人の違いが希薄になるような感覚が、あまり好きになれません。
だとしたら、誰が読んでくれるか分からないようなブログでも、自分だけの世界を一からつくっていくことのほうが、楽しく文章表現できるような気がします。
だったら部屋で日記を書けって話になってしまいますが。
でも、人に見せることを前提として書くことに、快感があると思うのです。


ということで、文章をさらさらと書けるようになるまでは、なるべく毎日ブログを書き続けたいです。
高校生ぶりのブログは、今、とても楽しい。