きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

世界はいくつ

ゆらふらうん強く持ってこの心(明日の右足ちょっと見えてる)


お酒を飲むとたくさん短歌をつくります。
わたしは酔うと饒舌になる質なので、短歌のほうも、ぺらっぺらといくつもつくってしまう。
そういう時に出来た歌は、精神論をこねくりまわしたような、何だかよく分からないものが多いので、後で見返しても全く意味が分からなかったりします。


昨日はひさしぶりに、たくさんのお酒を飲んで、とても楽しくて、こういう日があるのは良いなあ、なんて思っていたりしたのですが。
上の歌。酔ったまま帰ってきてつくった歌ですが、今読んでもさっぱり意味が分かりません。
ゆらふらうん、の擬態語と、強く心を持つことにどんな関係があるのか。
この心ってどの心なのか。明日の右足ってなんなのか。
自分の歌なのに、他人の歌を読むように解釈しています。
いったい何をよみたかったのやら。
強い心を持ちたかったんだろうな、とそれだけはなんとなく理解。


短歌の解釈って、幅が広くて、それが魅力であり欠点であるのだろうと思います。
たったの31文字だから、いかようにも解釈ができて、解釈によって広がる世界が存在することは魅力的です。
一方、解釈する側が、短歌を自らに引きつけすぎてしまえば、それはもう解釈ではなくて、ただの妄想になってしまいます。
解釈と妄想は紙一重。


そういった解釈の危うさは、短歌だけに限ったはなしではないんでしょう。
小説も、映画も、作品ひとつの量が多いぶん、短歌よりも解釈が固定化するはずですが、解釈がたったひとつであるわけはなくて。
わたしたちが暮らしているこの世界の色々も、いつも一緒にいる人の言葉のひとつでさえも、たったひとつの見方をすることは出来ない。
解釈する人によって、時によって、それらは全く違った景色を見せるのでしょう。
そのことは、やっぱり、魅力であるけれど、自分の考えはただの妄想ではないか、と考えてしまう寂しさを含んでいるのだと思います。
まあ、みんながみんな同じことを思ってしまう世界のほうが、よほど寂しいから、これで良いんでしょう。


雑多で忙しくて希望と絶望に溢れた明日がやってくる。だから今は今のこの心を強く持とう。
上の歌、そういうふうに解釈してみました。
他の人はどう読むのか気になります。