きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

1月27日

ヒヤシンスしあわせがどうしても要る/福田若之
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ヒヤシンスが花屋に並ぶ今日このごろ、この俳句を思い出す。
一昨年の秋、はじめて歌会に参加した時に耳にした句。
短歌も俳句も、右も左も分からなくて、フレーズが綺麗な五七五に分かれないことに違和感を抱いて、けど「ヒヤシンス」と「しあわせ」の言葉の噛み合わせが妙に心地よくて、自然と覚えてしまった。
区跨りも切迫感があって本当に「要る」んだなぁ、と思わせる。
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わたしの地元の花屋では、球根が土に埋まっている所から、ヒヤシンスが売られている。
毎日、花屋の前を通って駅に向かいながら、少しずつ芽をだして、花開こうとするヒヤシンスの成長を眺める。
シクラメンアネモネ、ジュリアン、たくさんの華やかな鉢植えの隣で、寒風の中、着々と育っていくヒヤシンス。
だからヒヤシンスには忍耐という言葉が似合うと思ってしまう。
「どうしても要る」、つまり今、「しあわせ」は無いのだ。
無いけれど、「どうしても」必要だと、ヒヤシンスに掛けて訴える。
低く、狭く、暗い所で耐えてなお、「しあわせがどうしても要る」のだと、実感を持って感じられる花が、この句の作者にとって、わたしにとっても、ヒヤシンスなのだと思う。
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「これ、口に出しても誰も分かってくれないな、と思うことを詠むのが短歌」
という趣旨のことを誰かが言っていた。
「分かる分かる、と何でも言い合える人達の間に、短歌はいらない」
これは枡野さんがTwitterで言っていた言葉。
「誰も分かってくれない」ことは一方では辛いことだけれど、一方では、自分の中に綺麗な意味ある言葉を積み上げる大事なきっかけなのだと思う。
そんなわたしは、最近思うように短歌が作れないから、残念だけれど、きっと少し、しあわせなのだ。