きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

「謝罪して欲しい」について

p160「夜行列車」
謝罪要求する彼或いは彼女が望むことは、本当は「対等」の立場を奪回することなのだ。虫けらのように扱われた、そのときに一瞬でも変容してしまった自分の意識ー哀れみを乞う、卑屈になる、怯える、徹底的な劣位を体験するー自分の身の上に起こったそういう感情を払拭することだ。そして自分の身の上に起こったことの本当の意味を分かってもらいたい。痛みをそれぞれ個人レベルの痛みとして感じてもらいたい。それが形を変えて補償金要求になっていく。せめて相手国家の懐ろを痛めて欲しい。よくある犯罪加害者に対して「同じ目に遭わせてやりたい」という被害者側の発言も、恨みの響きをまとっているが根は同じところから発しているのではないか、起こったことの本当の意味を分かって欲しいという。そして意識の様々な層を貫いてそういう表現になる。
梨木香歩『春になったら苺を摘みに』


p55
つまりいじめとは、いじめをする者にとっては、他者を傷つけたり排除したりすることで「自意識」や「自己価値欲望」を満たそうとする、そのような本質的〝意味〟をもったものなのだ。逆にいえば、そこに「自意識」「自己価値欲望」を満たそうとする欲望がなければ(たとえば限られた食糧をめぐる戦いなど)、わたしたちはそれをいじめと呼ぶことはない。(略)
人間が戦う理由の根底には、ただ生存するためだけでなく、自己の価値を、自由を、他者に承認させたいとする欲望がある。そうでなかったら、奴隷の反乱も、現代まで続く多くの革命も、歴史上起こることはなかっただろう。
苫野一徳「いじめの本質にせまる授業」『授業つくりネットワークno.18』



「謝って欲しい」と「からかってやれ」「いじめてやれ」の根っこは同じなのかもしれない。
正反対の行為だけれど。
同じように「かまってちゃん」も意図的な無視も、根っこは自己価値を他人に分からせたい、自分でも深く認識したい、その表れなのだと思う。