きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

目的って一つじゃないなぁ

塾でアルバイトをしようと思ったのは「教える」という経験を積みたかったから。
いわゆる一斉授業の技術を磨きたい、と思ったんです。
指示の出し方とか、発問の仕方とか。
でも、アルバイトを始めた後に、一斉授業の弊害について沢山知ることになりました。
分からなくてもその場では質問できないこと、分かっていても聞かなくてはいけないこと、「聞く」ということ自体が疲労へ結びつくということ。
それは本や人から見聞きしたことでもあるし、アルバイトを通して身を持って知ったことでもあるし、自分自身の体験からも分かること。
そういった従来の指導方法に疑問を抱く期間は、自分がどういう教育をしたいのか、何故教育に関わりたいのか考える期間と重なりました。
人が自分を好きになって自分の力で人生を切り開けるようになること、人が他人を好きになって誰かと世界をつくっていけるようになること。
そのツールとして読書や計算やいろいろな知識や学び方があるのだと、私は考えています。


塾の目的、存在意義は簡単です。
第一志望校に合格させること。
でも、塾に関わる全ての人がそこへ向かっていけるかというと、そんなことはない。
子どもは時に受験に意欲的でありません。親を満足させるために塾へ来ている子どももいる。
親もさまざまです。子どもの第一志望ではなく、「なるべく偏差値の高い学校」に子どもを入れたがる人もいる。
塾の職員は、合格実績を稼ぐことを念頭に入れずにはいられない。
そして私は、「人が自分を好きになって自分の力で人生を切り開けるようになること、人が他人を好きになって誰かと世界をつくっていけるようになること」という考えなしには、もはや子どもと関わることが出来ません。
そういった様々の「別の目的」は本来の目的と違うからといって封じ込めてしまえるものではないのです。
それらの目的が頭のどこかにある限り、必ずその影響が出てくる。


言うことを聞かない男の子が、年上の男性の先生の言うことなら素直に聞くのを見て、なんでかなぁと考えたことがあります。
威厳の有無が原因かな、と厳しい物言いをしてみたこともありました。
性別が関係しているのだろうか、とやるせない気持ちになったこともありました。
でも今は、私の「誰かに命令されて動くのは嫌だ」「子どもを命令で動かしたくない」というマインドが、彼に伝わっているのだろうと考えています。
思ってしまっていることを封じ込めるのは無理なんです。
ある人が「先生の思いは毛穴からブワーっと出て子どもに伝わる」と言っていました。
多分、そういうことなんです。


色んな人の、さまざまな目的は、どう擦り合わせていくべきなのでしょう。
色々な目的の狭間で、子どもが割りを食ってはいないでしょうか。
私は、私の受験をマイナスのものだなんて全然思っていない。
夕食休みにクラスの友達からマックのポテトをもらうのは楽しかったし、細かい知識をどんどん覚えていくのも快感だったし、頑張ったことが結果に繋がるのはすごく嬉しかった。
塾が悪いものだとは全然思わない。(それは学校に対しても思っていることでもあります)
でも、その負の面を見つめる現在の私の思いは、きっと毛穴から出てしまっているであろうその思い、はどこへ持って行くべきなのだろうと考えてしまいます。