きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

ある日のこと。


「いくら言っても『死ね』『バカ』と言い続ける人を、クラスのゲームに参加させることはできない」
先生の言葉はまさに宣告。
変えようのない事実のように告げられる。


クラス会として体育館で行われたドッジボール
運動が得意な彼は先生に宣告されて、凍り付いた。
「え?」
多分、何回か謝れば許してくれる、と思ったのだろう、しきりに謝っている。
そう、彼はこういう力関係に聡い。
先生に逆らわない程度に好き勝手するのが上手だ。
けれど、クラスメイトは彼を見逃さなかった。
「〇〇に『死ね』とか傷つく言葉を言われたことがある人?」
先生が尋ねると多くの子どもが手をあげた。
「ほらね。何回も言ったよね。友達いなくなるよって。先生ばかりに良い顔してもダメなんだよ」
正論だ、と私は思う。彼は確かにズルイ所がある人だ。


「〇〇なしでドッジボールをやります」
と先生が言うと、一人の男の子がガッツポーズをした。
賢い男の子だ。人は人の不幸をこんなにも純粋に喜べるのだ、といささか客観視しはじめたわたしは感じる。
ドッジボールの最中、彼はずっと泣いていた。声をあげて。
一人の女の子が言う。
「誰が泣いてるの?」
そして何事もなかったかのようにドッジボールへと戻っていく。
そう、こんなふうに面倒事に関わりたくない女の子は多い。わたしもそうだったなぁと思う。
一人の男の子が私の元まで来て言った。
「かわいそう」
その言葉にちょって面食らう。
その子は彼によくいじめられる男の子だったから。
気弱なその男の子を、彼は逆らえないだろうと踏んでよくいじめていた。
それなのに心からの「かわいそう」が出てくる事に、驚いてしまった。
「そうだね。次は一緒にできるといいね」
それしか言えなかった。


ドッジボールが終わった後も先生の宣告は続く。
「これからも『死ね』『バカ』が続くようなら、次のクラス会も参加させません」
「みんな、これは意地悪ではないよね?」
「みんなで彼を見張っていこうね」
やっぱり正論だ、と思う。
人を傷つける言葉を言ってはいけないこと、ムカついてもそのまま行動に起こしてはいけないこと。
そういった沢山の指導をやってきた後の対応なのだと思った。
「死ね」と言われる子どもよりも、「死ね」と言う子どもを庇うことは、先生という職業には出来ないのだと思った。
それでも彼は「昨日ケンカしてココ殴られた。まぁオレが悪かったんだけどさ」と言える人だと知っている。
「今日、お父さんにココ殴られた。見て、めっちゃ腫れてる」という言葉も聞いていた。
正論だ、けど何かが違うと思った。
でも、ここが限界かもしれないと感じてしまった。


オバマ政権下に生活が全く改善せず、高所得者を恨み、既得権益を奪う移民を恨み、トランプに一票を投じた白人労働者層をわたしは非難できない。
同じように、彼に「死ね」と言われた男の子が彼の不幸にガッツポーズをしたことも、非難できないのだ。