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きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

一人をきちんと見ること

発達障害があり、対人関係や集団生活に困難を感じているAくん。
友達と遊ぶと、遊びのルールに納得できずキレてしまう。
「ノートを写してください」という先生の声がうまく心に入っていかず、「みんなに迷惑をかけるな」と怒られてしまう。
そうやって今まで生きてきたからだろうか、自尊心もものすごく低い。
勉強は良くできるけれど、少し躓くとカッとなってしまう。
リコーダーがうまく吹けず、「このリコーダーは壊れてるんだ!」と怒鳴る。


算数の時間に「みんなのペースに付いていけないから」という理由で、Aくんの勉強をわたしが見ることになった。
先生の「〇〇を解いてください」がうまく心に入らず、鉛筆や筆箱をいじってしまう。
一対一になると、比較的、言葉が心に入るようだ。
「Aくん」と声を掛けてから話すと、より心がこちらに向く。
勉強はよくできるAくん。
本当ならばやらなくて良い、確認の計算まで問題なく終えた。


体育館に行くためにクラスの子どもたちは列をつくっている。
Aくんは自分の机のあたりでフラフラとしている。持ち物を探している様子。
先生の「Aくん、はやく」との声にハッとして列の後ろにむかう。
しかし、先生やクラスの子どもたちが進み始めると、ふらっと窓ほうへ向かう。
「体育の授業に遅れちゃうよ、行こう」と声を掛けると、
外を眺めながら「なんでこんなに雪が降っているのに積もらないのかなぁ」と言う。
「地面につくと溶けちゃうんじゃないかな」
「じゃあなんで、あの屋根の所は積もってるの?」
「うーん、屋根は地面より冷たいのかなぁ」
「えー、なんで!?」
「ほらほら、みんなAくんがいないって心配するよ。そろそろ体育館行こう」
そして、半ば無理やり体育館へ連れていく。


算数の時間、先生の「円の形をしているものはありますか?」の質問に、子どもたちはいろいろな物の名前をあげる。
「空き缶は?」「空き缶の底、確かにそうだね」「ボール!」「ボールはまんまるでしょ、それは球といいます」
Aくんはふらふらっと教室内を歩きだす。
鉛筆削りの回る部分や、箱に空いた穴を先生に見せて、「これはこれは!?」と言う。
他の子どもたちは座ったままAくんを見ている。


「Aくんにとっての教育を考えること」と「集団を教育すること」の間に感じる溝。
学級集団、という言葉が嫌い。
クラスづくりという言葉も嫌い。
それでも人は3人以上集まると群れになる。
群れには群れの力が働く。強い者と弱い者が生まれるのは群れの特性。
例えばミツバチが女王蜂とそれ以外に分かれることで生存率を上げたように、本来は意味ある特性なのだと思う。
群れである「クラス」というものの中にある時、「一人」をきちんと見ることはひどく難しい。
それでもわたしは集団としてクラスを見ることにもの凄い嫌悪を感じてしまう。
集団を育てて、何になるというのだろう。
その集団は、たった1年~数年で解散してしまうものなのに。
それでも集団を考えない限り、クラスという集団を扱うことは出来ないと思うと、とても虚しい。