きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

「背景が違う」雑感

教育って信念対立が起こりやすい分野です。
というのも、すべての人が教育を受けてきているから。
親からの教育、学校での教育、その他大人や先輩、もしくは後輩からの教育という名の影響。
さまざまな教育、影響、背景を持ってこの場に立っている人たち。
気の合う友人が正反対の教育観を持っている、そんなのザラのこと。


全員を満たしうる教育など存在しない。
場が多様であればいい。
どう頑張っても多様であれない個であるわたしは、「わたしはこう考えこう行動するのだ」と言える存在であればいい。
改めてそう思います。


私が目指している道は多くの人を幸せにする道ではない。
私が私らしく幸せであれる道でしかないのです。

「ズルイ」

小学校にボランティアに行くようになって、耳についた言葉に
「ズルイ」
があります。
友達が何かすれば「ズルイ」
先生が何か言えば「ズルイ」
「ズルイ」の裏側にはどんな気持ちがあるのだろう。
ずっと気になっています。


例えば先日の一コマ。
音楽の時間。リコーダーの練習をする子どもたちは一人ひとつ譜面台を使います。
ですが、音楽室にある譜面台は子どもたちの数よりも2つ少ない。
そこで譜面台を手に入れられなかった子は、倉庫にある譜面台を使うことになっています。
この譜面台が「ズルイ」の原因。
その日も一人の子どもが「せんせーい、譜面台足りなくなった」と言いました。
「じゃあ倉庫から持って来なさい」
と先生が言うや否や、「ズルイ」の声が上がります。
「お前、先週も使っただろ」
「いいやつ(倉庫にある譜面台のこと)使いたいから最後まで待ってたんだろ」
非難の声、轟々。
その声に対して「そんなんじゃねーし、たまたまだし」と反論すれば、
「じゃあ、こっち(音楽室にある譜面台)でもいいんだね。これ、やるよ」
「はぁ!?お前がいいやつ使いたいだけじゃん」
と喧嘩へ繋がります。
ちなみに倉庫の譜面台、全然「いいやつ」じゃないです。
足の形がちょっとだけ違う、なんてことはない譜面台。


もう一例。防災訓練。
地震がおさまりました。クラスごとに校庭へ集まりなさい」
の放送が入ると、子どもたちは一斉に防災頭巾を被って廊下へ並びます。
先生の「しゃべらない、うるさい、ちゃんと並ぶ」の声が響く廊下。
そして校庭へ向かって歩き始めました。
私は列の後ろについていくことに。
ところが、一人の男の子が防災頭巾を被らず手に持ったまま歩いています。
その子は親や先生によく怒られている子。
反抗することにアイデンティティを見出しているタイプで、同級生が彼に注意すると「うるせぇ!」と威嚇で黙らせます。
昔は手が出ることも多かったのですが、最近はそれは減って来たようです。
今、彼がいる場所は行列の先頭にいる担任の先生からは見えない位置。
「担任の先生にばれなければ怒られないだろう」
「大人しく防災頭巾を被るのは癪だな」
そんな気持ちが見え隠れする行為です。
私は一応「本当の地震だったら頭を守るのは大事だよ」と告げますが、もちろんそんなことは分かった上での行為なのでしょう。
大人しく防災頭巾を被ることはありません。
防災訓練は非常時に速やかに体を動かせるように、体の動かし方(机の下に隠れる、校庭へ向けて焦らず歩く)を慣らすためのもの。
そういう場で「防災頭巾を被らないこと」を厳しく糾弾するのは良くないかなぁとの判断。
「本当の地震だったら被るんだよ」と言うだけに済ませました。
と、そこで側にいた別の男の子が「ズルイ」と一言。
「なんであいつだけ被らなくていいの?」
と強い口調です。
「あの子も防災頭巾被らないといけないことは分かっているみたいだよ」
と告げるものの納得しない面持ちでした。


ーーー
この二例、どちらも「ズルイ」と言われる程、優遇された状況ではありません。
かたやちょっと形の違う譜面台、かたや防災訓練中に防災頭巾を被らないだけのこと。
でも、子どもたちにとってこれは大問題なのです。
彼ら彼女らの「ズルイ」を聞くたびに、その裏にどんな気持ちがあるのだろうと耳をすましてきました。
最近感じるのは、「私は苦痛を感じている」という叫びです。
学校というのはどうしたって我慢の場になっています。
しゃべりたい時にしゃべれないこと、物を忘れれば怒られるという恐怖があること、自分のペースよりも集団のペースが大事にされること。


そうやって日々我慢をしている彼ら彼女らにとって、「普通と違うこと」は許せないことです。
何故なら彼ら彼女らこそが「みんな同じようにあれ」と大人に強制されているから。
算数の計算が遅い子は「小学〇年生で、それは遅すぎるよ」と言われ、
何事もワンテンポ遅れてしまう子は「みんな待ってるよ」と発破をかけられ、
つい自分のことに熱中してしまう子は「周りのことを考えなさい」と叱られる。
そんなふうに毎日毎日「みんなと同じようにあれ」と言われ続けた子どもたちは、お互いに対しても「同じであること」を強制し合うようになるのだと思います。
彼らの「ズルイ」は、
「私が我慢している『みんなと同じであること』をお前は何故守らないのだ。そんなことは許せない」
ではないのか…今、そういうふうに考えています。


でも「同じであること」がベースの考え方は危険じゃないかなぁとも思うのです。
だって世の中は「同じでないこと」がスタンダートだから。
現代を生きる私たちは日々、「同じでないこと」を認める努力をしてきているはずです。
車いす用のスロープが駅に作られたってだれも「ズルイ」とは言いませんよね。
それは障がい者への差別と偏見をなくそうとしてきた今までの努力の結果です。
LGBTへの差別偏見も問題となりました。
同性同士の結婚もどんどんと認められつつあります。
「同じであること」が普通であった近代までから、「同じでないこと」が普通である未来へと、時代は確実に変わりつつあります。
そういう時代を生きていく子どもたちに必要なのは、「みんなと同じ」になれるように努力する力なのか?
私は違うと思います。
これからの時代に必要なのは「同じでないこと」を認めたうえで気持ちよく生きていく方法を探す力ではないのか。
障がい故の違いは認められるのに、「健常者」という枠の中の違いは認められない、それで良いのか、良くない。
じゃあ、小学校教育はどうしたら良いのだろう。

「難しい問題探そうよ」

今日の発見は「フロー状態」
フロー状態についてはダニエルピンク『モチベーション3.0』などに詳しいです。

p199もっとも重要なのは、フローにおいては、やらなくてはならないことと、できることの相関性がぴったりと一致する点だ。課題は簡単すぎず、難しすぎない。しかし現在の能力よりも一、二段高く、努力という行為そのものがなければ、とても到達できないレベルのことをほぼ無意識のうちにやっている。これが心身を成長させる。このバランスが、その他の月並みな体験とはまったく異なるレベルの集中と満足感を生み出す。

簡単すぎる課題やゲームってつまらないですよね。
かといって難しすぎる課題は疲れてやる気がなくなっちゃう。
できそうで出来ない、でもなんとかすると出来る!そんな課題やゲームが一番ワクワクします。
だから、常に楽しく学んでいくポイントは、自分のフロー状態を持続させる課題を自分で見つけていくことかもしれない。


算数の時間。
クラスの子どもたちの勉強の仕方は様々です。
一人黙々と机にむかう子、ホワートボードを使って友達と話しながら問題を解く子、ホワイトボードにでかでかと図を書きながら一人で取り組む子、友達と話しながら解く子、…と思いきや「ちょっと一人で考えてみる」と机にもどる子。
一人一人に課題達成を任せると、こちらが一方的に教えるよりもずっと速くミッションクリアします。
これにはびっくりしたなぁ。
「ぜんぜんわかんなーい!」と「よゆーよゆー!」の違いは、意欲的に取り組めるか否かだけなのかもしれない。
彼ら彼女らには力が備わっている。わたしはそれを阻害せずのびのびとしておける最高の環境をつくる人にならないと。
今日は本当にそう思いました。


そんなこんなで授業時間を半分も残してミッションクリアしてしまった子どもたち。
事前に「ミッションクリアした後は、算数ならどんなことをしてもいいよ」と告げていました。
「何すればいいー?」と聞く子にはレベルに合った過去問などを勧めつつ、基本的には子どもに任せる。
みんな何をするだろう?と思っていると、
「難しい問題探そうよ」
とネットで問題を探す子どもたち。
「難しい学校の過去問解いてみようよ」
と過去問をペラペラとめくる子も。
そして、授業時間が終わった後も、「こんな問題あったよ」「この過去問見て自己流問題つくってみたー」「これ解いてみて!」とまるで遊ぶかのように問題を解いて(半分くらいの問題は挫折したみたいだけど)いました。


これ、まさにフロー状態ですよねぇ…とびっくり。
授業時間を超えて問題に取り組む子どもたちにとって「算数」が勉強でなく遊びになっている。
できそうでできない、時にはできる…そんな問題を楽しんでいる…!


ーーー
フロー状態って「できそうで出来ない、でもなんとかできる!」問題だけがあっても不十分なんですね。
いくらフロー状態に適した問題だとしても、取り組もうとする意欲がなければ効果ナシです。
大事なのは自分の手で、自分の意志で問題に取り組むこと。
そうしてはじめて課題解決が楽しくなるのだなぁ。
学びと遊びと柵を取っ払うこと。これって可能なのでは!?と感じた1日でした。

「だってまだAが納得してない」

合意形成って本当に本当に難しい。
でもすっごく大事なこと。
楽しく生きたいように生きていくためには、他者の「生きたいように生きたい」を認めないわけにはいかない。
そんな相反する各人の欲望を、どうやって合意へと持って行くのか。
大人だって難しい、その方法を模索しています。


ーーー
給食の時間、同じ班のAくん、Bくん、Cくん、Dさんは話し合いをしています。
議題は遠足のバスの席割り。
班の中で2人組を作るのに、誰と誰が隣になるかでモメているのです。
BくんとCくんは隣に座りたい。
一方Aくんは女子のDさんの隣は嫌だと思っているようです。
DさんもそんなAくんの気持ちを察しているの様子。


Bくん「さっきジャンケンで決めたじゃん。オレとCが隣。AとDが隣。」
A「だって、そんなのズルイよ」
C「なんで?」
A「決め方おかしいし」
(ジャンケンで勝った人が隣になりたい相手を選ぶ、という決め方に納得がいっていない様子)
B「これでもう決定って言ったじゃん。だから決まりだよ」
D「でも、その決め方で良いかどうかAが納得していないうちに決めちゃったじゃん」
(これ、いい言葉。)
D「A、決め方に納得してないんでしょ?」
A「うん」
B「じゃあ、もう1回やればいいんでしょ。A、さっきの決め方でいいよね!?」
A「…うん」
(勢いに押されてちょっと頷いてしまう)
(ジャンケンの結果、やはりBとC、AとDという組み合わせに)
B「はい、決定!」
A「そんなのズルイよ」
B「だってこの決め方でいいって言ったじゃん」
A「言ってない」
(やはり合意形成できず)
A「じゃあ、行きと帰りで組み合わせ変えればいいじゃん。そしたら平等だよ」
B「オレはそれじゃ嫌だ」
C「オレもそれはちょっと面倒くさいかなぁ」
A「なんで。オレのやり方が一番平等だよ」
B[でもオレはそのやり方じゃ納得しない」
A「オレもBの決め方じゃ納得しない」
B「でもAのやり方に納得してないのはオレとC、オレのやり方に納得してないのはAだけだろ」
(ここで「納得してるかどうかって多数決で決めていいのかな」と私が口を挟む。思案するB)
(引き続き話を整理しつつ私が口を挟む。「誰とペアになるか」で全員が納得することは難しい。でも「ペアの決め方」で全員が納得できるものはないか、と提案。Cが「確かに}と一言)


ーーー
ここで給食の時間が終わってしまい話はうやむやに。
時間にしておよそ10分。
この場面で私が取り得る最善の在り方って何だったかなぁ。
Aが納得していない点っておそらく二つあって、ひとつは自分以外の男子ふたりがペアになり自分が女子のDとペアになること。
もうひとつは「ジャンケンで勝った人がなりたい相手を選ぶ」という決め方。(自分以外の男子はどう転んでも自分を選ばない、という状況を招いてしまう)
だから、「ペアの決め方で全員が納得できるものはないか」という提案は、状況の整理であるとともに、少し誘導的な発言だった。
グッパーで相手を決める、あみだくじで相手を決める、などの偶発性に頼る決め方のほうが納得いくものになるのではないかと思ったからだ。


成長したなぁと思うのは、ここで「ふざけんなよ」「バカ」といった挑発の言葉が出なかったこと。
AもBも自分の欲求を主張しているものの、(危ういけど)力ずくで主張を通そうとはしていない。
Aが行きと帰りでペアを変えるという第三案を出したこと、
Bが「納得してるかどうかって多数決で決めていいのかな」という私の言葉に思考をめぐらせたこと。
Aに隣になりたくないと言われたDが「Aが納得していないからもう一度決め直そう」と言えたこと。
どれも合意形成に必要な力。
もうひと押し、もうちょっとだと思ったんだけどなぁ、全員が納得できるバス割り。


ちょんせいこさんの「ホワイトボードミーティング」とか、紛争解決のためのファシリテーションとか、
合意形成のための方法をもっと学ばないといけないなぁと感じた一コマでした。

「〇〇が言った時にもう気づいてたよ」

勉強も、スポーツも、例えば本が読めているか否かだって、他人がどこで躓いて、何が成長へのキーポイントなのか、それを知るのはとてつもなく難しい。
脳の中で何が起こっているのかは見えない。
知らない知識があるからかもしれない、知識は知っていても使い方を知らないのかもしれない、疲れや萎縮といった体の不調が脳の働きを遮っているのかもしれない。
それ知ってる?これはこう使うんだよ。いま疲れてる?
そうやっていくつもいくつも質問を重ねて、説明を加えていけば分かるのかもしれない。
でもそうやって言葉に頼っているうちに、子どもはどっぷりつかれてしまう。


Cさんは算数が苦手。
クラスの中でも理解が遅いほう。
そんな彼女にわたしはいつも過剰なほど質問や説明をしてしまう。
運動会前。ただでさえ疲れている彼女はぐったりして私の言葉もあまり耳に入らないようだった。


今日の算数のクラスでも子どもたちがホワイトボードを使いながら教え合うことを認めた授業をした。
「認めた」というのは教え合いが強制でない、ということ。
教え合いをしていいよ、と告げた際にこう言った。
「みんなの中にはだれかと話しながら問題を解いたほうが気持ちよく勉強できる人がいるよね。わたしは全員に気持ちよく問題が解けるようになってほしいと思っています。だからだれかと相談したりホワートボードを使ってもいいよ。でも、みんなの中には一人で集中して勉強したい人もいるよね。わたしは〝全員に〟気持ちよく勉強してほしい。だから声のボリュームは小さめに、他の人が嫌がることはしないように気を付けてほしいと思います。」
やっぱり授業中に話したり席を移動することができる、というのは子どもたちにとっては過刺激。
はじめはどうしても声が大きくなってしまうし、逆に過敏な子は「うるさい」とキツめの注意。
それでも「ちょっとボリューム大きいよ」「これくらいの声の大きさで」と言葉を掛け続けていると、そこそこしっとりとした空気になってくる。


そんな中、Cさんは疲れ気味だからか、(もしかしたら劣等感のためか)、話しながら問題を解いているグループには混じらず一人で問題を解いていた。
というよりもう問題を解く気力がない、といったかんじ。
私は教室内をぐるぐると回りながら、頻繁に声をかえて質問やら説明やらしていた。
「大丈夫?」「この問題、解説しておく?」「ここ、どうなると思う?」「お、いいとこまで行ってるねぇ。」


授業の途中、躓いている人が多いな、と感じて一問だけ一斉授業型で解説をした。
「この問題、まず何をする?」
と聞くとすでに解き終わっているDさんが
「△△を使う!」
と一言。「そうだね」と受けつつ解説をした。
一通り解説を終えて、「また各自問題を解いてね」と言うと、ホワイトボードを使いたい子どもたちは、今わたしが書いたばかりの解説をサッと消して次の問題を書き始めた。
それを見て「あ、やばい」と思うわたし。
というのも、気力疲れしたCさんがまだノートをうつしていたから。
どうしようもないので、「ごめん、消えちゃったね。さっきの解説で分かった?」と聞くと、
「大丈夫。ていうかDちゃんの『△△を使う』でもう答え分かったし」
とのこと。
わたし、「じゃあ解説の必要なかったじゃんー!」と拍子抜け。
(まぁ、他にも引っかかっていた人がいたのだけれど)


誰かの一言が閃きのヒントになることが、大いにある。
それなのに、長い解説長い説明、子どものことを思っての質問は気力を失わせるばかり。
「わたしに合った先生としての在り方」はずっと模索中、全然分からない。
けど、一方的に教える人にはなれないな。
そう思った一コマです。


その他補足。
教え合いは合う子どもにはものすごく合う。
今まで「わかんないー」と机に突っ伏していた子どもが、誰よりも早く問題を解いて喜々として他の人に教えていたりする。
かといって全員が〝話す〟ほうへ流れていかない。
一人でじっくり取り組める人も多い。
やっぱり課題は互いを尊重する環境づくり。
他の人が嫌がることをしないこと。
そして時間と最低限のラインの主導権を渡さないこと、かなぁ。
「好きなだけ、好きなようにしていいよ」だと場面を見ての方向転換ができない。
今は一斉授業をしたほうがいいな、とか。
さすがにうるさすぎるかも、とか。
ここまでは出来るようになってほしい、とか。
そういった微調整をできる権限をしっかり持っておくことは大事かもしれないなぁ。
そんなこんな、トライアンドエラーです。

恐怖の恐怖のその先に

新しいことは、人と違うことは、自分をさらけ出すことは、
怖くて仕方がない。
怖い時の想像力はありえないほど逞しい。
はじめて教壇に〝先生〟として立った時、はじめて一人で外国に言った時、人前で歌ったり演奏したりする時。
「これなら大丈夫だろう」のその先に行くとき、想像力が羽ばたく。
何て言われるだろう、笑われるだろうか、泣かずに終えられるかな、失敗した時にどんな態度を取ればいいかな、何を言えばいいかな、本当にこの選択で良かったのだろうか……
短い時間でありとあらゆることを考えてしまう。


この夏に、プロジェクトアドベンチャーの体験会に参加した。
救命具をつけてハイエレメントのロープコースに登った時、ものすごい恐怖を感じた。
上にはこれから一緒にチャレンジをする仲間がいたし、下にはそれを応援してくれる仲間がいた。
絶対に落ちることはできないと思った。
もちろんわたしが落ちても、仲間たちは笑って「がんばったね」と言ってくれるだろう。
それでも、影で失笑する姿、がっかりする姿がいくらでも脳裏に浮かんだ。
それにロープコースはものすごく高所だった。
そもそも運動が苦手なわたしにとって、それも恐怖のひとつ。


結局、上まで登ることはできた。
仲間はねぎらってハイタッチをしてくれた。
安心感か挑戦できた喜びか、涙が溢れて自分でびっくりした。


怖いのは行き着く先が分からないからなのだと思う。
どういう結果が得られるのか分からないから、たくさん想像してしまう。
その想像力は沢山の危険と隣り合ってきた人間の力かもしれない。
でも、その想像力を跳ね除けて「その先」へ行かない限り、良い結果も新しいアイディアも今以上の幸せも手にはいらない。
「その先」に行くと、次はどの方向に行けばいいか、なんとなく見えてきたり(見えてこなかったり)するのだと思う。
トライアンドエラー
〝怖い〟は次への扉。


人と違うことをやってみて、嬉しいことがたくさんあって、「ああ、やってよかった」と感じつつも、
やっぱり〝怖い、怖い〟と思った。
〝良かった〟と〝怖い〟は共存するんだなぁとちょっとおかしかった。


〝怖い〟をたくさん、たくさん繰り返したらどこへ行き着くのか、見に行けるようになりたい。

「先生、教えていい?」

小学6年生の算数。
今日もまるで言うことを聞かないA君。
「やりたくない」「もういいやー」だけならともかく、問題を解いている他の子に声を掛けて「無視すんなよー」とまで言い出したらさすがに黙ってはいられません。
…とはいうものの、今日はすでに2時間も算数をやっているこのクラス。
前の時間は厳しい先生だったということもあって、ものすごく疲弊しているのは目に見えています。
「疲れたのは分かるからちょっと休んでもいいけど、他の人の邪魔はしないでね」
とお茶を濁すものの、誰かに構われたい、という欲求もあるのでしょう。やっぱり黙ってもいられない様子。


どうしたもんかなぁといつも通り思案します。
今までの反省を踏まえて、今日どんな対応をしようか考えては行くものの、やっぱりその時の状況を見るまでは「良い手」なんて思いつかないものです。
良い教授法、クラス運営法、素晴らしい先生の実践報告……
それらに触れていくうちに分かってくることがあります。
それは、それらが万能でないこと。
どんな実践も方法も、その場の状況とクラスや先生のタイプによって良くも悪くもなる。
状況や己自身を見つめ判断できる力が肝なんでしょう。


そんなわけで良い案も浮かばないでいたら、一人の女の子が「先生、教えていい?」と声を上げました。
どうやらまるでやる気のないA君を見かねてどうにかしなきゃ、と思ったようです。
うーん、どうしようかなぁ、とはじめは思いました。
というものの、その女の子も中々騒がしい子で、勉強を放り出して遊びに転じる可能性が大いにあるのです。
でも、今日は問題が簡単だったのもあって、彼女は範囲は全て解き終えている。
A君への対応も万策尽き果てている。
…ということで彼女へ任せてみることにしました。
これがなかなか良かった。


女の子に「やるよ」「はい、これは?」「A君!」と追い立てられたA君はどうもやる気を出したようで、さっさと問題を解いてしまう。
教えていた女の子はホワイトボードを使って、普段は嫌がる図や表を書いて自分の計算ミスにも気付いたよう。
A君に邪魔されまくっていた男の子はじっくりと応用問題に集中。
手の空いた私は躓いている子に一対一で説明をすることが出来ました。
もちろん不安要素はあって、一斉授業ならあり得ない笑い声や話し声(雑談含む)に真面目な女の子はイライラしていたかもしれないなぁ。
それでも、状況が合えば「子ども同士で学ぶこと」はこんなにも効果がある、と実感することが出来ました。


以前同じクラスで「教えていいよ」と伝えた時、まるで学びが機能しなくなってしまったことがありました。
分かる人が極端に少ない状況で、「分からない」の感情の渦が学びを放棄してしまったのです。
結局、その場では雑談しか生まれませんでした。


教え合いも、子ども同士の学びも状況次第。
互いがライバルとして扱われる塾ではどちらかというと不向きなのかもしれません。
それでもトライアンドエラーが出来たことが今日の収穫!です!


もうひとつ。
「常道でないことをやろう」と思った時、様々な不安があります。
同じ職場の人に何を言われるだろう。
今日の範囲を終えられるだろうか。
保護者からクレームが来たらやばいなぁ。
でも、それらよりも大きな不安は、「子どもたちに失望されたらどうしよう」
子どもたちのために試行錯誤ながらやろうとしていることだから、対大人は実はあまり怖くない。
「こんなのダメだ」と言われたら、反発もできるし謝ることだってできる。
後からどうとでも繕えることなのです。
でも、目の前にいる子どもに「この先生、もうダメだ」と思われるかもしれないという恐怖はなかなか拭えない。
だから「先生ってこういうものでしょ」の殻を破るのが怖くて仕方がないのだなぁ。
その気付きも今日の収穫。
明日もがんばろう。