きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

なんとなく分かってしまったこと

今、教育という世界を軸に働こうとしていて、「一人一人を見ること」を中心に考えていきたいなぁと思っている。
多様性という言葉で片付けてしまわずに、一人一人の違いをきちんと分析して評価する技術を持ちたいと思っている。
でも、アルバイトの個別指導で1対2の授業をしながら、きちんと見られていないなぁと思う。たった2人の生徒を。
一方としっかり話をしようと思えば、もう一方がお留守になる。
2人同時に「この問題分からない」と言えば、片方に待っていてもらわざるを得ない。
そりゃそうだなぁと思う。わたしの目は二つあるけど180度の開きがあるわけではないし、わたしの口は一つしかない。


おそらく1対1にも限界があるのだろう。
24時間、1対1の関係を続けることは出来ないのだから。
だから、きっと、大切なのは、もう何回も耳にした「主体性」であり「協同」なのだと思う。
学びの主体が学ぶ本人にない限り、どんな一対一も効果はもたない。
一対一の片一方に教師しか在れないのだとしたら、たくさんの生徒を前に一対一は不可能だ。子ども同士が学び合えないのなら、一斉授業のほうが余程マシなのかもしれない。


わたしは「一人一人を見ること」の意味を履き違えてはいけない。
他者の全てを分かろうとしてはいけない。それは到底不可能だ。
わたしは豊富な選択肢の中から「これ、君に合ってるんじゃないかな?」と提案する人でありたい。
けして「見ててあげるからやってね」ではなく。
「一人一人を見ること」はけっして他者を理解してあげることではない。
履き違えてはいけない。

「どう変えたいか」

とある方が、
「学校を変えたい」「教育を変えたい」と言う学生は、どう変えたいのか、なぜ変えたいのか、なぜ現状がこうなのか、を問い続ける必要があるのだ
というような趣旨のことを言っていた。


とある先生が、「子どもは厳しく育てられるべきだ」と言っていた。
確かに、忘れ物をする、勉強ができない、集中しない、、などといった子どもの行動を厳しく叱っている。
おそらく、この先生は厳しく育てられたのだろう。もしくは自分は緩く育てられたせいで不利益を被ったと感じることがあるのだろう。
この先生の教育観は決して否定できるものではない。


でも、発達障害のあの子が、人より勉強するスピードが遅いあの子が、親に起こしてもらえないから遅刻するあの子が、みんなの前で怒られるのを、わたしは良しと思わない。


変えるべきは教育観ではないのだなぁ。

心が死ぬ時

最近、全然振り返り書けていないなぁ。
何のために振り返りをするのかが曖昧だからかも。
目的を持って振り返りをしたい。
当面の目標は、個人に焦点を当てたアセスメント能力の強化だから、対個人で感じたことや行ったことを振り返ればいいな。
でも、今回は別の話。


自分の心が死ぬ瞬間を体験したからその記録。
アルバイト先の塾に、ここのところずっとイライラしていた。
事務と指導を同じ人に処理させる仕組み故に、子ども対応が雑になること。
指導可能な教科などおかまいなく、日程が空いている人に授業を持たせること。
授業時間以外の雑務をさせるのに、給料を出さないこと。
それら全てから透けて見える、社員もアルバイトも生徒も交換可能であるという考え。


たまたまその時間にいたから、という理由で小学生に算数を教えた。
予習もせずいきなり見た問題だったけれど、なんとか分かる内容だった。
ちょっとほっとしてしまった。
ほっとした自分が、その組織に慣れてしまっているようで嫌だった。
子どもも嫌そう。そりゃあ、いつもの先生のほうが良いに決まってる。
冗談とテンションで、なんとか楽しい空気をつくってその時間を終えた。
でも、子どもは絶対楽しくなかったと思う。
次の時間も、はじめて顔を合わせる子どもだ。
でも、こちらは何をするのか事前に把握している。
「なんとかなるはず」
そう思った時、心が死んだな、と思った。
今わたしがしていることは、コンピュータでもできる、ただ既知の内容を教示することでしかないと、思った。


こんな仕事の仕方は、もう二度としたくないと思ったから、ここに記録する。

一人をきちんと見ること

発達障害があり、対人関係や集団生活に困難を感じているAくん。
友達と遊ぶと、遊びのルールに納得できずキレてしまう。
「ノートを写してください」という先生の声がうまく心に入っていかず、「みんなに迷惑をかけるな」と怒られてしまう。
そうやって今まで生きてきたからだろうか、自尊心もものすごく低い。
勉強は良くできるけれど、少し躓くとカッとなってしまう。
リコーダーがうまく吹けず、「このリコーダーは壊れてるんだ!」と怒鳴る。


算数の時間に「みんなのペースに付いていけないから」という理由で、Aくんの勉強をわたしが見ることになった。
先生の「〇〇を解いてください」がうまく心に入らず、鉛筆や筆箱をいじってしまう。
一対一になると、比較的、言葉が心に入るようだ。
「Aくん」と声を掛けてから話すと、より心がこちらに向く。
勉強はよくできるAくん。
本当ならばやらなくて良い、確認の計算まで問題なく終えた。


体育館に行くためにクラスの子どもたちは列をつくっている。
Aくんは自分の机のあたりでフラフラとしている。持ち物を探している様子。
先生の「Aくん、はやく」との声にハッとして列の後ろにむかう。
しかし、先生やクラスの子どもたちが進み始めると、ふらっと窓ほうへ向かう。
「体育の授業に遅れちゃうよ、行こう」と声を掛けると、
外を眺めながら「なんでこんなに雪が降っているのに積もらないのかなぁ」と言う。
「地面につくと溶けちゃうんじゃないかな」
「じゃあなんで、あの屋根の所は積もってるの?」
「うーん、屋根は地面より冷たいのかなぁ」
「えー、なんで!?」
「ほらほら、みんなAくんがいないって心配するよ。そろそろ体育館行こう」
そして、半ば無理やり体育館へ連れていく。


算数の時間、先生の「円の形をしているものはありますか?」の質問に、子どもたちはいろいろな物の名前をあげる。
「空き缶は?」「空き缶の底、確かにそうだね」「ボール!」「ボールはまんまるでしょ、それは球といいます」
Aくんはふらふらっと教室内を歩きだす。
鉛筆削りの回る部分や、箱に空いた穴を先生に見せて、「これはこれは!?」と言う。
他の子どもたちは座ったままAくんを見ている。


「Aくんにとっての教育を考えること」と「集団を教育すること」の間に感じる溝。
学級集団、という言葉が嫌い。
クラスづくりという言葉も嫌い。
それでも人は3人以上集まると群れになる。
群れには群れの力が働く。強い者と弱い者が生まれるのは群れの特性。
例えばミツバチが女王蜂とそれ以外に分かれることで生存率を上げたように、本来は意味ある特性なのだと思う。
群れである「クラス」というものの中にある時、「一人」をきちんと見ることはひどく難しい。
それでもわたしは集団としてクラスを見ることにもの凄い嫌悪を感じてしまう。
集団を育てて、何になるというのだろう。
その集団は、たった1年~数年で解散してしまうものなのに。
それでも集団を考えない限り、クラスという集団を扱うことは出来ないと思うと、とても虚しい。

ある日のこと。


「いくら言っても『死ね』『バカ』と言い続ける人を、クラスのゲームに参加させることはできない」
先生の言葉はまさに宣告。
変えようのない事実のように告げられる。


クラス会として体育館で行われたドッジボール
運動が得意な彼は先生に宣告されて、凍り付いた。
「え?」
多分、何回か謝れば許してくれる、と思ったのだろう、しきりに謝っている。
そう、彼はこういう力関係に聡い。
先生に逆らわない程度に好き勝手するのが上手だ。
けれど、クラスメイトは彼を見逃さなかった。
「〇〇に『死ね』とか傷つく言葉を言われたことがある人?」
先生が尋ねると多くの子どもが手をあげた。
「ほらね。何回も言ったよね。友達いなくなるよって。先生ばかりに良い顔してもダメなんだよ」
正論だ、と私は思う。彼は確かにズルイ所がある人だ。


「〇〇なしでドッジボールをやります」
と先生が言うと、一人の男の子がガッツポーズをした。
賢い男の子だ。人は人の不幸をこんなにも純粋に喜べるのだ、といささか客観視しはじめたわたしは感じる。
ドッジボールの最中、彼はずっと泣いていた。声をあげて。
一人の女の子が言う。
「誰が泣いてるの?」
そして何事もなかったかのようにドッジボールへと戻っていく。
そう、こんなふうに面倒事に関わりたくない女の子は多い。わたしもそうだったなぁと思う。
一人の男の子が私の元まで来て言った。
「かわいそう」
その言葉にちょって面食らう。
その子は彼によくいじめられる男の子だったから。
気弱なその男の子を、彼は逆らえないだろうと踏んでよくいじめていた。
それなのに心からの「かわいそう」が出てくる事に、驚いてしまった。
「そうだね。次は一緒にできるといいね」
それしか言えなかった。


ドッジボールが終わった後も先生の宣告は続く。
「これからも『死ね』『バカ』が続くようなら、次のクラス会も参加させません」
「みんな、これは意地悪ではないよね?」
「みんなで彼を見張っていこうね」
やっぱり正論だ、と思う。
人を傷つける言葉を言ってはいけないこと、ムカついてもそのまま行動に起こしてはいけないこと。
そういった沢山の指導をやってきた後の対応なのだと思った。
「死ね」と言われる子どもよりも、「死ね」と言う子どもを庇うことは、先生という職業には出来ないのだと思った。
それでも彼は「昨日ケンカしてココ殴られた。まぁオレが悪かったんだけどさ」と言える人だと知っている。
「今日、お父さんにココ殴られた。見て、めっちゃ腫れてる」という言葉も聞いていた。
正論だ、けど何かが違うと思った。
でも、ここが限界かもしれないと感じてしまった。


オバマ政権下に生活が全く改善せず、高所得者を恨み、既得権益を奪う移民を恨み、トランプに一票を投じた白人労働者層をわたしは非難できない。
同じように、彼に「死ね」と言われた男の子が彼の不幸にガッツポーズをしたことも、非難できないのだ。

ある日のこと。


甘えってなんだろう。
甘えを見せられたら、どう対応すべきなのだろう。


「自分のペースで進めてね」
その日解くべき問題を提示した後、わたしは教室を循環して質問対応にあたる。
けれど、A君は杳として問題に取り組まない。
社会の参考書を見てみたり、落書きをしてみたり。
「わかんなーーい」
という叫びに彼の元に赴くと、横の女の子が口を挟む。
「本当は分かっているのに甘えてるだけだよ」
いやぁ、それは分かってるんだよ~と心の中で思いつつ、放っておいたら彼は何もせずに帰宅することになるだろう、、
と思うと、結局、手取足取り教えてしまう。
それが彼の学力や能力に何の影響もないばかりか、マイナスですらあるのは分かっていながら、である。
「〇〇、全然わかんなぁい」
と自身を名前で呼ぶ小学6年生男子を見ながら、甘えはどこから来るのだろう。甘えにはどう対応すべきだろう、と思う。

コミュニケーションを!

ある日のこと。


先日、教員室のど真ん中で「教え合い」を拒否されたわたし。
〝教室を覗かれている気がする〟という被害妄想に陥っている。


「40~50分くらい集中できなきゃ困る」
と言われたことを受け、90分授業の中の何分かは、自由に勉強していいよと言っている。
「自由に勉強する」とは、勉強する場所(机?ホワイトボード?)や、勉強すること(過去問?基礎の計算?)を自分で選ぶということ。
その際、相談は必ずするようにしている。
「自由に勉強できる」ことは受験生にとっても必要な力。
現状の能力と自分の特性に見合った勉強が出来るようになってほしい、そういう思いも伝えている。
後ろめたいことは何もない。


でも、〝覗かれている気がする〟と感じるということは、どこかに後ろめたさが残っているということ。
多分、コミュニケーション不足だ。
「不信感を持たれている気がする」
「監視されてる?」
わたしの教室に立ち寄る彼が、いったいどういうつもりなのか、喋ってみないことには分からない。
もしかしたら本当に不信感を持っているのかもしれない。
教室の子どもと話しに来ただけかもしれない。
変なことをしている私に興味を持っているのかもしれない。


何をするにも、コミュニケーションが欠かせない。