きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

物語について

物語のなかには、いろいろな感情があって、いろいろな思想がある。
どんな登場人物にもその人なりの気持ちなり思いがある。


よく、「敵にも敵なりの正義がある」作品が賞賛されることがある。
それは、現実世界のあらゆる人に、その人なりの正義があるからなのだろうと思う。
物語を読むことは、たくさんの人の考えや思いを自分の中に育むことなのだろうな、と思う。


神話はなぜ、物語の形をとるのだろうとずっと考えていた。
それはきっと、感情をベースにすることでしか世界を築くことは出来ないからではないか。
たくさんの思いを反映できるのは、説明的な語り口ではなくて、物語なのではないか。
物語は、感情が行動を生み出すことを是とするものではないだろうか。

ダメな理由を探してた

この間、現職の先生と話をした。


私「学校の制度に疑問があって…例えば『45分座っていられること』を大事と思えなくて…」
先生「でも、集中力をつけるのって大事じゃないかな?」
私「集中力って嫌なことをガマンした時につくんでしょうか?好きなことにガッツリのめり込んだ時、集中することを学ぶのかなぁって思うんです。」
先生「なるほどね」
私「やっぱり、自分が良いと思えないことを子どもに諭そうとしても、全く伝わらないと思うんです。昔、アルバイト先で『授業を聞きたくない時は聞かないほうがいい』と思っているのに『聞きなさい』と言ったことがあって、全く伝わらないなぁ…と思いました」
先生「でも、そう思えなくても子どもに伝えたことは偉いね」
私「偉いんですかね…?心から良しと思えないことを諭しても意味ない気がするんです」
先生「でもみんなで守るルールがあるからね。嫌なことはしなくていいって子どもが思ってしまうのは良くないんじゃない?」
私「……」


わたしは、いったい誰にいいわけしているんだろう。
何故、心から良いと思ったことを言わないのだろう。
「言えない」理由をごまかしているのだろう。
思い通りにならないと愚痴を言っているのは何故だろう。


制度が自分好みになるのを待っているだけでは、何もしないのと同じ。
良いと思うことは、言い訳せずにやってみよう。
そこからしか始まらない。

結局、わたしはどう在れるのだろう

最近は自分の在り方について、よく考える。
人に対して、どういう状態で相対したいのか。


わたしは「人が困っていたら助けたい」「楽しそうだったら一緒にやりたい」
でも、「困ってないんだったら頼らないでほしい」「自分が楽しいと思えないことは、否定しないけど参加しない」
ごくシンプルに人に対してこう思ってる。


一番したいことは、「色んな人が出入りする大きな家みたいな空間をつくること」「人が自由に楽しんでいる状態を楽しむこと」「時々他の人と楽しいことをシェアすること」
得意だなぁと思うことは、「なんとなく人の気分を察すること」


一番したくないことは、「自分が是としないことを他人に諭すこと」「怒鳴ること」「つい人を否定する言葉が口をついてしまうこと」
苦手だなぁと思うことは、「集団を統率すること」「物事をはっきり言うこと」


この1年間さまざまな場所で人と関わりながら、この「在りたい」と思う姿から離れれば離れるほど、心が固まるのをリアルに感じてきた。
「授業を聞きたくない時は聞かないほうがいい」と思いながら「話を聞きなさい」と諭した時。
集団をまとめなければと焦ってまとまらない個々の人の気持ちを無視した時。
「ほかの子どもに示しがつかない」という理由で子どものやりたいことを止めた時。
「本心と違うことをした」と思う時、さぁーっと心が冷めていく。


本質的な部分で「こう在りたい」と思うことのできない行動は、取るべきでないと思う。
自己矛盾していることは、多かれ少なかれ人に伝わってしまうから。
本質的な部分で「こう在りたい」と思う行動を増やしていきたい。
そのほうが自分の行きたいところに行けるような気がする。

ざらっとした気持ち

急いで先週の振り返り。
体育のバレーボール。
クラスを4チームに分けて試合をすることになったので、わたしはその片方の見張りを任された。
審判は子どもたち自身でやるそうだから、「見張り」という表現が近い。要するに見ているだけ。
子どもたちは何度もどちらに点が入ったかでもめた。一回ボールの受け渡しが途絶えるたびにもめた。
でもわたしは何も言わなかった。もめることも含めて勉強なのだと思っていたから。
子どもたちが「公正な試合のために審判をしてほしい」と言うまでは黙っていようと思った。
勝手にスコアボードをめくる子どもに「みんなで話合ってから来て」とだけ繰り返した。
結局子どもたちは妥協点を探すこともあれば、強硬することもありつつ試合を終えた。
この試合の振り返りをしたいなぁと思った。どういうことが起こったのか。どういう気持ちになったのか。
「最後に一列に並べて礼をさせてほしい」と担任の先生に言われていた。
だけど負けたチームの子どもたちは三々五々に散らばっていく。
「きちんと礼をして試合を終えよう」とわたしは言った。大きめの声だった。
それでも負けたチームの子どもは集まらず、わたしはもっと大声をあげた。
結局、勝ったチームの子が引っ張るように散らばった子どもを集めて礼をした。
わたしは大きな声を出しながら、無理やり礼をさせながら、ざらっとした気持ちになった。
これは正しくないやり方だとその瞬間から感じていた。
「わたしは何故礼をさせるために権威を使ったのだろう?」
責任を持って試合をするために礼が欠かせないと考えていた?
担任の先生に言われたことをやらないと、という自己防衛?
子どもが自分の言う通りにならず腹立たしかった?
多分、そのどれもの要素が少しずつある。そして、そのどれもがその場にいる子どもへの目線から生まれたものではなかった。


今日もがんばろう。

この2年

この年末年始はたいして本が読めず、何故だか昔読んだ本ばかりパラパラと捲っていました。
なぜだろうね。もうすぐ人生に一区切りつくからだろうか。


2年前の4月、「今月の短歌」として俵さんの歌を手帳に書きました。
「旅人の目あるうちに見ておかん朝ごと変わる海の青あお」
石垣島に移住した俵さんが、移住したばかりの「旅人の目」をもって詠んだ歌。
今までとは違う場所に行くのだから、けれどその目新しさはすぐ消えてしまうのだから、「旅人の目」があるうちに見たことをきちんと記録しておこう、そんな気持ちでこの歌を眺めたことを思い出します。
でも、この2年間はずーっと旅人だったなぁと振り返ってみると感じます。
ホームがないままに色々なところに顔を出して。学んだことや日々のモヤモヤをどこへ向けて昇華させて良いのか分からずに。
どこをホームにしたいのか、ずっとフラフラ彷徨っていた2年のような気がします。


年末年始に再読した本の中で、グサッときたのは西村さんの『かかわり方のまなび方』
この本は読むたびに刺さる箇所が変わる、すごく良い本です。
本の中のファシリテーターについて書いている箇所で、自己一致の大切さに触れてありました。
場に居る人の学びや活動を促進しうるファシリテーターに必要なのは無条件の信頼、共感的理解、自己一致であると。
無条件の信頼(行為ではなく人そのものを信じること)や共感的理解ってよく聞くんです。
その度に最近はちょっとモヤモヤしていて、そのモヤモヤはなんだろうなぁと、時々考えていました。
そのモヤモヤ、「信頼できない自分」や「共感できない自分」を無視することから来てたんだなぁ、と、思いました。
自己一致が大切であるということは、「信頼できない自分」「共感できない自分」を認める必要があるということ。
その上でそんな自分に大幅なウソをつかない行動をするのがよいのだろうな、と思いました。


もうひとつ、このタイミングで再読してよかったなぁと思ったのは梨木香歩さんの『春になったら苺を摘みに』
自分の価値観、ものの考え方に近しいエッセイです。
その中に「それぞれの戦争」というエッセイがあります。
太平洋戦時下、アメリカの日本人強制収容所に居た人に梨木さんが偶然出会った話が主軸となって、梨木さんの戦争観が語られていく。
強制収容所にいたその方は、アメリカ生まれのアメリカ育ち。自らをアメリカ市民だと堅く信じていた時に、日本人の血が流れているからという理由で強制収容所へ。
命からがら日本へ帰ってからも、戦時下の日本のこと、大変な思いをされたらしい。
その方は梨木さんに、「戦後何十年も経ってアメリカの地に再び渡った時、自分にとっての戦争が終わった」と語り、梨木さんは「それぞれの戦争」について思いを馳せます。
そんなエッセイを読みながら、わたしもやはり「それぞれ」に着目したい人間なのだと、改めて感じていました。
テロで何百人が死んだ、〇〇町の女子高生が殺された、そんなニュースを聞く時に感じるプラスチック一枚隔てた感触が体に馴染まない。
「学校教育はこうあるべき」「理想的な先生とは」とつい語ってしまった後に感じる虚しさ。
大きなことを見たり話したりする時の現実感の無さ。
わたしはつくづく「目の前のその人」でないと上手く接していけないのだと思います。
わたしの「自己一致」はここからはじめないといけない。


とある場で、「先生が困難のある子どもに構いすぎたが故の学級崩壊」の話を聞きました。
よく聞く話だなぁと思いつつ、わたしもそうなるだろうな、と考察。
そうしたら別の人が「特別支援学校にいた人もそこに陥りがち」と一言。
それを聞いて、なんだろうなぁ引っかかるなぁと思いました。
なんだろう、個人を見ることが大事という文言と、教師はあくまで集団を見るものという考え。
個人にフォーカスしたいわたしの「自己一致」はこの矛盾の中でどのように在れるのか。
どのような力を持てば「自己一致」したうえで人と関われるのか。


旅人として2年間をやってきて、この年末年始に馴染みの本を読んだりなどしていると、もとの場所に戻ってきたなぁという感じがするのです。
教育について、文学について、読書について、共感について、多様性について、継承と創造について、常日頃なんとはなしに考えたり、本を読んだり、人と話したりして、結局のところ「自分の在りたい在り方」にもどっていくような感じ。
あと残り3ヶ月、どういうふうにこの2年の決着がつくのかつかないのか、やってみるしかないなぁ、といったところです。

なんとなく分かってしまったこと

今、教育という世界を軸に働こうとしていて、「一人一人を見ること」を中心に考えていきたいなぁと思っている。
多様性という言葉で片付けてしまわずに、一人一人の違いをきちんと分析して評価する技術を持ちたいと思っている。
でも、アルバイトの個別指導で1対2の授業をしながら、きちんと見られていないなぁと思う。たった2人の生徒を。
一方としっかり話をしようと思えば、もう一方がお留守になる。
2人同時に「この問題分からない」と言えば、片方に待っていてもらわざるを得ない。
そりゃそうだなぁと思う。わたしの目は二つあるけど180度の開きがあるわけではないし、わたしの口は一つしかない。


おそらく1対1にも限界があるのだろう。
24時間、1対1の関係を続けることは出来ないのだから。
だから、きっと、大切なのは、もう何回も耳にした「主体性」であり「協同」なのだと思う。
学びの主体が学ぶ本人にない限り、どんな一対一も効果はもたない。
一対一の片一方に教師しか在れないのだとしたら、たくさんの生徒を前に一対一は不可能だ。子ども同士が学び合えないのなら、一斉授業のほうが余程マシなのかもしれない。


わたしは「一人一人を見ること」の意味を履き違えてはいけない。
他者の全てを分かろうとしてはいけない。それは到底不可能だ。
わたしは豊富な選択肢の中から「これ、君に合ってるんじゃないかな?」と提案する人でありたい。
けして「見ててあげるからやってね」ではなく。
「一人一人を見ること」はけっして他者を理解してあげることではない。
履き違えてはいけない。

「どう変えたいか」

とある方が、
「学校を変えたい」「教育を変えたい」と言う学生は、どう変えたいのか、なぜ変えたいのか、なぜ現状がこうなのか、を問い続ける必要があるのだ
というような趣旨のことを言っていた。


とある先生が、「子どもは厳しく育てられるべきだ」と言っていた。
確かに、忘れ物をする、勉強ができない、集中しない、、などといった子どもの行動を厳しく叱っている。
おそらく、この先生は厳しく育てられたのだろう。もしくは自分は緩く育てられたせいで不利益を被ったと感じることがあるのだろう。
この先生の教育観は決して否定できるものではない。


でも、発達障害のあの子が、人より勉強するスピードが遅いあの子が、親に起こしてもらえないから遅刻するあの子が、みんなの前で怒られるのを、わたしは良しと思わない。


変えるべきは教育観ではないのだなぁ。