きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

ふりかえり

p54
教えるということは、心が開かれており、正直であること、そして興奮や向学心を共有できることを意味します。
(略)
とても単純なのです。生徒たちは宇宙人ではありません。彼らは、美しさとパターンに反応し、誰もが好奇心をもっています。話してみればいいのです。そして、より大事なのは、彼らが言っていることに耳を傾けることです。
ポール・ロックハート『算数・数学はアートだ!』



ふりかえりは大事。
「早いうちに睨みをきかせておいたほうがいい」とアドバイスされた。
「先生、うちのクラスの子どんどん怒っていいからね」ってやさしく言われた。
職員室で交わされる「〇〇は相変わらず人の話聞けないよ〜」なんて話に頷いたりしちゃってる。


職員室の日常に、先生の日常に溶け込もうとしてる。
もちろん早く慣れたいなぁとは思ってる。
でも、ほんとうにそれでよかった?
そういうふうに子どもと関わりたかったのだった?
今、すごく不安。だから先生の日常を取り込もうとしてる。たぶん先生の日常だって間違ってるわけじゃないんだ。
でも、それはほんとうにわたしにとって気持ちのよいものなのか。在りたい在り方なのか。
そういうことを、ていねいに淹れたコーヒーを飲みながらふりかえりたい。

未来のわたしのために書く

最近のブログはどうもウェットだ。
うつりかわりの時期だから、仕方ないのかもしれないけれど。


3月が静かに終わろうとしている。
砂時計のさいごの一粒を数えるような毎日を過ごしている。毎日がたのしいし毎日がさびしい。
笹井宏之さんの「終止符を打ちましょう そう、ゆっくりとゆめのすべてを消さないように」って短歌が似合うような日々。
結局のところ、わたしは今までがほんとうに大事で、そんな日常のひとつひとつに終止符を打つのが悲しくて、先のことなんて考えられなかった。
たぶん「準備をするのが苦手」なんて言い訳で、ただただ今までにお別れすることから目を背けていたのだと思う。


暇な時間ができるとソワソワして何も手につかない。
そんな時は動くといいよって未来のわたしのために書く。
このあいだ偶然空いた時間が怖くて、9kmを歩き続けた。
どこかへむかって歩いていると、不思議と思わぬところから良い風が吹いてくる。そんな経験がこの2〜3年に何度かあった。
家で泣きたくなったらどこか遠いところへ歩いてみようと思う。
未来は手繰り寄せるものであるかもしれないけれど、吹いてくるものかもしれない。
そんなふうに今、思います。

ていねいに

p56
仕事の内容はあらかじめ決まっていても、それを「どうやるか」は自分で考えることができるし、やることができる。(略)
クリエイティビティとは仕事の内容より、むしろやり方や、それに対する姿勢。ひいてはあり方に関するものだと思う。
西村佳哲『自分をいかして生きる』



ていねいにお仕事したいなぁ。
「仕事」はお金をもらうこと、という意味合いではなくて。
青木将之さんが著書で紹介していた、利休七則はどんなことにも当てはまるのだろうな。

茶は服のよきように点て
炭は湯の沸くように置き
花は野にあるように
夏は涼しく冬暖かに
刻限は早めに
降らずとも傘の用意
相客に心せよ

ていねいに向こう側にいる人のことを思いたい。
ていねいに沢山の準備をしたい。
ていねいに今を感じたい。
今できるすべてを、ていねいに。

こういう一日

「ひとを傷つけないようにしようとするのは傲慢」だとあるひとが言っていた。


わたしは何故かささくれ立っていて、今までとこれからを比較してはこれからが不安で仕方なくて、そんな気持ちで横断歩道の前に立っていた。
車が主体の土地だからなのか、右折車はわたしを無視して何台も走っていく。
わたしはとても傷ついていた。
なんで止まってくれないのだろう。このままだと信号が赤になってしまう。都会だったらこんなこと、あり得ないのに。
そんなとき、「ひとを傷つけないようにしようとするのは傲慢」という言葉を思い出した。
右折した車に乗っていた人たちは、自分の行動がわたしを傷つけたことなど思いもよらないだろう。
わたしだって、こんな気分でなければ傷ついたりしない。
わたしの受けた傷の責任のすべてが車に乗ったひとたちにあるなんて思ってない。
でも彼らの行動をきっかけとしてわたしが傷ついたのも事実。
こんなふうにひとは簡単にひとを傷つけられるのだと思った。


たまたま一台の車が止まってくれた。
わたしは一礼して走って横断歩道を渡った。
ひとが簡単に誰かを傷つけられるように、こんなにも簡単に誰かを救えるのだと思った。
そんな一日。

終わる瞬間

いのちとは心が感じるものだからいつでも会えるあなたに会える
俵万智『オレがマリオ』



まだ見ぬ人より今まで出会ったひとたちのほうが大事。
ももう会えなくなる人たちのために生きることは出来ないのだと思うと、かなしくなる。
社会の貧困も戦争をする世界も、ほんとうはどうだっていい。
でも簡単に誰かを殴ってしまう彼のことは心配で心配でしかたがない。
余計なお世話だ。
それでもわたしは彼のためにもっと何かができたんじゃないだろうかって悔恨の思いが止まらない。
「たられば」の話なんて無意味なのだけれど。


「終わる瞬間」ってにがてだな。
終わりへ向かって行くのはほんとうに好きなのに。
わたしはもう彼のために生きることができない。
どんなに素敵な教師になったって、社会のトップに立って教育をカンペキなものに変えることができたとして、彼の小学生としての一年はもう終わってしまったのだ。
そしてわたしはおそらく、もう二度と彼に、彼らに会わないだろう。
「終わる瞬間」のそのときに、わたしは何をしたらいいんだろう。
それがわからない。

振り返りって大事だねぇ

思い込み、思考のクセ、どうしても守りたいもの…
今まで存在すら知らなかった一つ一つに気づいてゆくことが振り返りなのだなぁ。
「きみ、そこにいたんかぁ」そんなふうに自分の中にある色々を発見していく。
気がついたところで何かがいきなり改善するわけでも、考え方を変えたりできるわけでもないけれど、楽なきもちになるね。
「世界が悪く見えるのは自分の考え方のせい」って考え方、物事の解決には結びつかないんじゃないかなぁって苦手だったけど、きっとほんとうだ。
世界は、自分が変わることからしか変わらない。


そして、自分ひとりでする振り返りと、人とのかかわりの中でする振り返り、どちらもものすごく大切。
わたしは他人の力で自分が変わると、完璧に信じていなかった。
自分に気づきを与えるのは自分だけだと思ってた。
たしかに「他人が気づきを与えてくれる」ことは少なめだけれど、他人とのかかわりの中からしか気がつけないことがある。
他人の力をいま改めて信じることができてよかった。
わたしは教師という他人として、子どもたちとかかわってゆくのだ。

あたたかい一日

p56
才能とは「繰り返し現れる思考、感情および行動パターンであり、何かを生み出す力を持つ資質」である。
マーカス・バッキンガム『さあ、才能に目覚めよう』



こう考えると、才能も思考のクセも欠点も紙一重かもしれないな。
ーーー
わたしは歩いているときに、特に色んなことを考えるのだと気づいた。
自分の思考のクセをモヤモヤと考え続けながら歩いた一日だったなぁ。