きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

今日という日

明らかに悪い行動。
ゲーム中の明らかなズル。
そのズルを怒声と迫力で押し通してしまうこと。
人の行動のいちいちに「ズルだ、ズルだ」と言うこと。
自分の理論を相手に押し付けること。
それを見た他人であるわたしは、大人であるわたしは、何をしたら良いのだろう。


担任の先生はたくさん怒った。
「もう〇〇とは遊ぶな」
とみんなに言った。
そんな先生に便乗してその子の悪いところを並べ立てる人もいれば、「まぁ気にすんなよ〜」っておちゃらけて慰める人もいた。
その子は「もうこんな学校来ない」「ふざんけんな」と担任の先生を罵倒した。
わたしはそんな話を相槌を打ちながら聞いていた。彼の隠れたメッセージはどこにあるのだろうと思いながら。
でも休み時間になったら、やっぱりみんなと遊んでいたし、やっぱりいつも通りズルばっかした。


結局、1年間同じことばかりに悩んでいる。
悪いことをした人は、けっして悪い人ではない。
悪い行動の原因が一番大切。
でも、他の子の安全を自由を守るのは先生の仕事ではないのか?
アメリカでは誰かが騒ぎを起こすと、警備員がその人を小部屋に連れて行くという。そして何事もなかったかのように授業はつづく。懲罰が正解なのか?


長期的にするべきことはわかる。話を聞くのだ。そして待つ。
他人の行動を変えられると思うなんて傲慢だ。
でも、短期的に、事が起きたその時に、わたしがすべきことって何だろう。
生きていて、こんなに最適解が見つからないことはそうそうない。それほど同じことばかり逡巡している。


ーーー
今日、ボランティアに行くのがすこし憂鬱で、怒鳴り声が、罵声が、意地悪な声が、頭の中をリフレインしていた。
でもふと、スティーブジョブズの「毎朝、今日が最後の日でも今日の予定を過ごすか?と自分に問い掛ける」という話を思い出した。
わたしは「今日の夜、あなたの命はおしまいですよ」と言われたとしても、きっと小学校に行くなぁと思った。
一番試される場所。幸せを願ってやまないひとたちとの一日。
今日も行ってよかった、こんなふうに毎日は続いてゆくのだと思う。


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氷になるだなんてばか者

p123
この種の不適切な行動(exいばる、自分勝手、人の誤りを楽しむ、自慢する、いじめる)は、子どもたちの権力へのニーズを満足させようという試みであり、自己有能感に対する強い欲求であると考えることができます。

p134
問題行動を起こす子どもたちを支援するために、まず取り組むべきことは、「問題行動の裏に隠れた暗号を解く」こと、つまり、子どもたちが問題行動を通じてどのような信号を発しているかを解明することです。

コンスタンス・マクグラス『インクルーシブ教育の実践』



まだ知らなきゃいけないことがいっぱいある。
今日はどんな声を聞けるだろう。

行動を

p190
対話をしていくこと。ただ対話をしていくこと。相手を変えようとしない行動。しかし、結果として何かは変わるかもしれない。ただ対話をする。変えられるのは自分だけである。
森川すいめい『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』


p88
すなわち、誰もが同じ立場にいるということだーどんな人も想定を持ち、自分の想定に固執し、神経質に不安な状態にある。根本的なレベルでは、人の状態は同じなのだ。
デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』



自分にとって「受け入れられないもの」に相対したときどうするか。
おそらく、「話すこと」「聞くこと」に終始するのだろう。
「どんな意味をこめてこの行動をとったんですか?」「あなたが一番したいことを教えてください」


子どもが「死ね」「ジャマ」「あっち行ってろ」そんなことばっか言うから、つい「そういう言葉はよくない」って言ってしまう。
そうしたら「ごめんね、イライラしてるんでね」って反抗的に言われた。
そう、きっと「どうしてそんなこと言うの?」って聞いてみるほうが良いのだ。
相手の行動を変えようと思うのは傲慢だ。
聞いてみること、そこからしかはじまらない。

空と陸

笹井宏之さんの「空と陸のつっかい棒を蹴飛ばしてあらゆるひとのこころをゆるす」という短歌が好き。最近好きになった。
昔はちょっと偉そうな歌だなぁと思っていたけれど。


最近、「憎しみ」について考える。
ウェストサイドストーリーのマリアは愛する人の死に際して「あなたたちが殺した。銃ではなくて、あなたたちの憎しみが」と言った。
人から発される憎しみの感情をモロに触れて思わず涙が止まらなくなったこともあった。
憎しみは、自己防衛とセットなのだと思う。自分を守るための棘。
けれどその棘は、人を傷つける。傷つけられた人はもっと鋭い棘で自分を守らなきゃいけなくなる。そして誰かを傷つける。その繰り返し。
憎しみ合いに触れるたびにうんざりしていた。だからその場からそっと離れるのが当たり前になっていた。
けれど、いつまでも逃げていられないことも、逃げても何も良いことがないこともわかってた。


笹井さんのいう「あらゆるひと」の筆頭には「自分」がいるのだろうな、とふと気づいてから、わたしはこの歌が好き。
許すってことは、きっと自分のなかに相手と同じ感情を認めることなのだと思う。
人より秀でたい思い、人をバカにしたい思い、人から認められたい思い、その結果としての憎しみ。
それは必ず自分の中にある。ないわけがないのだ。
「〇〇されたことはとてもショックだ。けれどあなたをそうさせた思いは、わたしの中にもある」それが許すってことじゃないだろうか。
わからない、わからないけれど今はそう思っている。


自分が今までしてきた悪い行動と相手の反応を思い返してみて、わたしは許されたかったのだなぁと、今、思う。
悪い行いは、やった瞬間に悪いって、わかってる。それでも謝れないのは、許してほしくて仕方がないからだ。
それは「あなたの行いを水に流してあげるよ。もうしないでね」と言ってほしいのではなくて、「〇〇したのはたしかに悪い。けれどそこに至ったあなたの思いはわたしの中にもある」そう言ってほしかったのだと思う。
醜い思いを存在するものとして、認めてほしかったのだと思う。


「空と陸」遠く離れているようで、境界線はあいまい。どこからが空なのか微妙だし、もしかしたら陸も空の一部かもしれない。
そんなふうに「わたし」と「あなた」の境界線をゆるめていきたい。
そこからはじめてみたい。


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自分がどこにいるか、みたいなこと

だれと、どのように関わっているか、みたいなこと。
何に価値を見出しているか、みたいなこと。
過去の体験の何が影響を与えているか、みたいなこと。
どういうふうな自分で在りたいのか、みたいなこと。


自分は今どこにいるのか、それを形成するたくさんの要素。
もう一度、何度でも考えたい。


ずーっと、同じ場所にいるのは良くない。
同じ人とばかり居るのはあんまり素敵じゃない。
同じ考えばっかり「いいね」「いいね」って言い合うもんじゃない。
そういうことに、今、気がつけてよかった。


世界中の人はいま何を考えているんだろう。
なぜ、その考えを持つに至ったのだろう。
がんばらんといけんね。

ベターな選択

最近、ボランティア先の小学校での振る舞いが盾についてきたなぁと思う。
ようやく!?というかんじではあるけれど…。
わたしは今、「わたし」として振る舞っている。
ほぼ嘘偽りのない「わたし」として。


例えば音楽の授業。
子どもたちは先生の話の最中にお喋りしてばかりだけど、ピアノが鳴ったら歌うし、リコーダーも吹く。
わたしは音楽の授業ってそれでいいんじゃないのかなぁ、と思ってる。
音楽をすることはすごく楽しい。
フワフワと楽しいなぁ~って思えれば音楽の授業は成功なのではないかと思う。
ピシッと立って歌うことが大事なんじゃない。向上心を持ってリコーダーの技術を上げることが大事なんじゃない。
だから、先生が話している最中のお喋りを、わたしはもう注意しない。
でも、わたしは大人だから、音楽の先生の気持ちだってなんとなく感じてしまう。
「いまはそんなに聞いてもらわなくていいや」と思っているんだろうなぁって時と、「ここはしっかりしたい」(授業の開始と終わりとか)と思っているんだろうなぁって時をわたしは感じている。
だから後者の時は、子どもに「先生、聞いて欲しいみたいだよ」と言う。
それでお喋りが止む時も止まない時もあるけど、わたしは音楽の先生の話をじっくり聞くようにする。


例えば、子どもとの距離の取り方。
全体を俯瞰できるようになりたいと思って、距離を広めに取っていた時期があった。
「先生、〇〇教えて」と言われても「友達に聞いてごらん」と言ってみたり。
でも、今現在、関わっている子どもたちにとってベターな振る舞いって違うのかもしれない。もっと、「こういう大人もいるんだ~」って大人の多様性を感じてもらうぐらい、がっつり関わるほうが彼らにとってプラスなのではないか…最近そんなふうに思う。
今日「〇〇教えて」と言われた時は、「友達に聞いてみない?」と誘ってみた。
「だれに聞けばいいの?」と言われたから「△△は暇そうだねぇ」「◻︎◻︎は同じことやってるよ」とまわりの状況をアドバイス
そうしたらすっと聞きに行っていた。そっか、彼女はだれに聞きにいけば良いのか分からなかったのか。


それでもやっぱり、何がベストかなんてわからない。
わたしの取った行動より、もっとよい行動があつたかもしれないし、なかったかもしれない。
だからもうベストには拘らない。わたしなりの、その場で思いつく限りのベターな行動を繰り返していく。

否定をしないところから

否定からは何も生まれない。
では全然納得のいかないことへは、どのように相対したらよいのだろう。


わたしはクラスでやる長縄が昔から大嫌い。
もともと運動が苦手だったこと、そしてプライドが人一倍大きかったこともあって、人に失敗した姿を見せ、かつ人に迷惑をかける可能性の大きい長縄は大の苦手だった。
今、大人となって、子どもたちの長縄記録会を見ていてもどことなく苦しさを感じてしまう。
「△△秒に〇〇回」の目標は、本当に子どもたちの目標なんだろうか?
先生の先生による先生のための目標ではないのだろうか?


行間休み。
休み時間返上で子どもたちと先生は長縄の練習をしていた。
週に1度その学校へ行くわたしは、今年もこの行事が始まってしまったと寒々しい思いを感じた。
担任の先生は普段から子どもたちを厳しく指導するひと。
長縄をとんでいる子どもたちへ向けて「〇〇!縄に入るのが遅い!」「はやく列をつめろ!」「〇〇~何やってんだよー!」と大声を飛ばしている。
わたしはその光景を見て、「わたしはどういうふうに振る舞えばいいだろう」と数秒ざざざっと考えをめぐらしていた。
「こんな行事なければいいのに」というのが心からの本心。
「でも、『こんなのおかしい!』ってボランティアであるわたしがいきなり発言するのは絶対ちがう」
「それに、ここでわたしが渋い顔をしても何も生まれない」と思う。
「でもでも、すでに先生の怒号に萎縮している子どもに発破をかけることもしたくない」と悩む。
子どもたちは互いにも厳しい言葉を投げつけ合っている。
「〇〇!ミスすんなよ!」「おいっフザけんなよ」「フザけてねーよ」
絶え間なく縄を跳びながらケンカもできるのは、それはそれでスゴイ。
結局わたしは、ミスした時は「ドンマイ!」と声をかけ、ギリギリのところで跳べた時には「ナイス!」と声を張り上げ、転んだ時には「だいじょぶかー」と言い、とにかく「子どもたちの心がちょっとでもあったかくなりそうな言葉」を投げかけ続けてた。
本当にこの行動がベストだったのか、よくわからない。
でも、厳しく注意を飛ばしていた先生がその日はじめて「ドンマイ」と声をかけた時、
縄を回していた子どもが「大丈夫、大丈夫ドンドンいこう」と言った時、
わたしの心はふわっと少し楽になった。
もしかしたら、わたしの言動は誰かにちょっとだけプラスの影響を与えられたかもしれない。



子どもたちは目標回数まであと少しの所まで跳んだ。
でもあまり嬉しくも悲しくもなさそう。
やっぱり子どもたちにとっての長縄記録回って強制されているものなんだろうなぁと思う。
わたしの言動はさらに子どもたちを追い詰めただろうか。
よくわからない。
あの場のあの時間、あのタイミングでのわたしのベストの行動は何だったのか、やっぱりどう考えてもわからない。