きょうも一日が終わる

きれいなものをきれいな文章で切り取りたい。

20170625

食パンの耳をまんべんなくかじる 祈りとはそういうものだろう
笹井宏之


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p131
宛先のない祈り、それを「だれか」の代わりに引き取る場所として、たとえばお宮やお社が護られてきたのだろう。
p133
写真家が、なにかある主題を浮かび上がらせるという観念性を脱落させて、見えるものと撮られたものとの際をかぎりなくゼロに近づけようとして、仕事をしばしば「カメラにまかせる」ように、終わりなき「祈り」のなかで、ひとはおそらく「祈り」そのものを何かにまかせる。たとえば、身体に。心がお留守になって散らばるのを防ぐために、宗教礼拝では、何事も、たとえば祈りの文句や数珠の持ち方なども、型どおりにおこなうよう定められている。
鷲田清一『「待つ」ということ』


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祈ること、願うことってどういうことだろう?
ひとは自分のしたいようにしか出来ない生き物だと思ってる。だから押し付けや強制は学びには繋がらないと思ってる。むしろ強制された事物を嫌いになるんじゃないのかなぁって思ってる。
でも、「こうなってほしい」という願いのないところは無味乾燥なんだろうなぁ。
自分の力で学べるようになってほしい、も、自由をうまく使えるようになってほしい、も願いだし、行き過ぎれば価値観の押し付けだ。
願いと強制が繋がらないところに祈りがあるのかな。そんなことを考えた1日。


ようやく頭で考える余裕がでてきた。
でも直感的に動いていた頃に悩まなかったことに苦しんだりしてる。
ジョブズの言葉を反芻する。今日で命が潰えるとしたら今日の予定を行うだろうか?
今は、うまく頷けない。